2008.10.05
彼女はモスキート。 第二四話
彼女が立って居た。
冬色の厚手のコートを着て、大きな鞄を肩から下げて、
重そうなブーツを履いて、玄関先に立っているリンカを、僕は見付けた。
其れは初めて出逢った日の彼女に、よく似て居た。
あの日と違うのは、今は雪が降っている事。
そして彼女の髪が、白色だった事。
真白な風景の中で、彼女の眼だけが、赤かった。

第二三話 『自室(潜熱)』
「今日は眼鏡じゃないんだ」
実にどうでも良い疑問が、最初に僕の口を吐いた。
彼女は何も言わずに「にひひ」と悪戯っぽく笑うと、ポケットの中から眼鏡を取り出した。
彼女の眼と同じ、真赤な縁取りの眼鏡をかけると、わざと僕とは眼を合わさずに、笑ってみせた。
「どうして君が、僕の家に?」
現実感覚の希薄な、酷く夢のような会話の中で、僕は彼女に問うた。
眼鏡をかけた真白な髪の彼女は、大きな鞄の中に手を入れると、小さな紙切れを取り出した。
1088。
赤色と白色のストライプで飾られたのは、漫画喫茶『SQUADRON 633』のスタンプカードだった。
「まさか、調べたの?」
「そんな事より、君は私を家に上げてくれるのかな? それとも上げてくれないのかな?」
「ああ……」
僕の疑問を遮るように発せられた彼女の声に、思わず僕は手を伸ばした。
彼女の手を取り、引き寄せて、玄関の扉を閉める。
風が止み、雪は見えなくなった。
「寒かったろ」
「愚問。道に迷ったらどうしようかと思っちゃった」
「よく調べたね」
僕が言うと、彼女は笑った。
重そうなブーツを脱ぎ、背筋を伸ばすと、歩き始める。
「部屋、こっち」
僕の声に反応するように、廊下を曲がり、扉を開ける。
瞬間的な、温度。
リンカが僕の部屋に居る。
其れは酷く非日常的で、奇妙な感覚だった。
彼女は鞄を床に降ろすと、周囲を見回しながら、冬色のコートを脱いだ。
「貸して」
ハンガーを手に取りながら、僕が手を伸ばすと、また彼女は笑った。
「病人は寝てなさいよ」
代わりに僕の手からハンガーを取ると、彼女は壁にコートをかけた。
彼女のコートが、まるで僕の部屋に飾られたオブジェのように、壁から垂れ下がっていた。
やはり其れも不思議な感覚で、数秒間、僕は其れを眺めていた。
「話、聞いてる?」
「え?」
「寝てなさいよ?」
彼女は何をする為に、わざわざ僕の部屋を訪れたのだろう。
ベッドに潜り込み、小さく息を吐き出すと、隣にリンカの顔が見えた。
どれどれ? と言いながら、彼女は僕の額に手を当てて、熱があるなと呟いた。
其れから先程、床に落としたタオルを拾い、「コレ使っても良いの?」と、僕に訊ねた。
「ああ、床、濡れちゃってる」
「落としたから」
「拭きなさいよ」
「君が来たから、落としたんだ」
水の中を小さく揺れる、氷の音が聞こえる。
タオルを絞る。水が滴る。
液体的な音。
「水、ぬるくなっちゃってるなぁ」
独り言のように呟く。
「お姉さんに、氷、貰ってきて良い?」
「え?」
「居間に居るかな、ちょっと待ってて」
僕の返事を聞く前に、リンカは勝手に立ち上がり、部屋を出た。
初めて訪れた家とは思えない振る舞いだけれど、
何故だか、あまり気にならない。
止める気力も無い。
姉とリンカ。
変な組み合わせだ。
居間から小さな笑い声が聞こえている。
「はい、お待たせ」
数分後、大量の氷を持って、彼女が現れた。
背後に、何故かマグカップを乗せたトレイを持った、姉の姿。
「何で?」
「何が?」
「何で姉さん、居るの」
「ココア、飲むでしょ?」
当然のように床に腰を降ろすと、
改めて彼女は、ぬるいタオルを水に濡らす。
彼女の隣に、まるで当然のように、姉が腰を降ろした。
「はい、ココア」
「僕、病人なんだぜ」
「病人だって、ココア飲みますよね?」
僕にマグカップを手渡しながら、彼女は姉に問いかけた。
姉は声には出さずに、小さく笑った。
笑っているな、と思った。
なるほど、病人でもココアくらい飲むよな、と僕は思った。
冬色の厚手のコートを着て、大きな鞄を肩から下げて、
重そうなブーツを履いて、玄関先に立っているリンカを、僕は見付けた。
其れは初めて出逢った日の彼女に、よく似て居た。
あの日と違うのは、今は雪が降っている事。
そして彼女の髪が、白色だった事。
真白な風景の中で、彼女の眼だけが、赤かった。

第二三話 『自室(潜熱)』
「今日は眼鏡じゃないんだ」
実にどうでも良い疑問が、最初に僕の口を吐いた。
彼女は何も言わずに「にひひ」と悪戯っぽく笑うと、ポケットの中から眼鏡を取り出した。
彼女の眼と同じ、真赤な縁取りの眼鏡をかけると、わざと僕とは眼を合わさずに、笑ってみせた。
「どうして君が、僕の家に?」
現実感覚の希薄な、酷く夢のような会話の中で、僕は彼女に問うた。
眼鏡をかけた真白な髪の彼女は、大きな鞄の中に手を入れると、小さな紙切れを取り出した。
1088。
赤色と白色のストライプで飾られたのは、漫画喫茶『SQUADRON 633』のスタンプカードだった。
「まさか、調べたの?」
「そんな事より、君は私を家に上げてくれるのかな? それとも上げてくれないのかな?」
「ああ……」
僕の疑問を遮るように発せられた彼女の声に、思わず僕は手を伸ばした。
彼女の手を取り、引き寄せて、玄関の扉を閉める。
風が止み、雪は見えなくなった。
「寒かったろ」
「愚問。道に迷ったらどうしようかと思っちゃった」
「よく調べたね」
僕が言うと、彼女は笑った。
重そうなブーツを脱ぎ、背筋を伸ばすと、歩き始める。
「部屋、こっち」
僕の声に反応するように、廊下を曲がり、扉を開ける。
瞬間的な、温度。
リンカが僕の部屋に居る。
其れは酷く非日常的で、奇妙な感覚だった。
彼女は鞄を床に降ろすと、周囲を見回しながら、冬色のコートを脱いだ。
「貸して」
ハンガーを手に取りながら、僕が手を伸ばすと、また彼女は笑った。
「病人は寝てなさいよ」
代わりに僕の手からハンガーを取ると、彼女は壁にコートをかけた。
彼女のコートが、まるで僕の部屋に飾られたオブジェのように、壁から垂れ下がっていた。
やはり其れも不思議な感覚で、数秒間、僕は其れを眺めていた。
「話、聞いてる?」
「え?」
「寝てなさいよ?」
彼女は何をする為に、わざわざ僕の部屋を訪れたのだろう。
ベッドに潜り込み、小さく息を吐き出すと、隣にリンカの顔が見えた。
どれどれ? と言いながら、彼女は僕の額に手を当てて、熱があるなと呟いた。
其れから先程、床に落としたタオルを拾い、「コレ使っても良いの?」と、僕に訊ねた。
「ああ、床、濡れちゃってる」
「落としたから」
「拭きなさいよ」
「君が来たから、落としたんだ」
水の中を小さく揺れる、氷の音が聞こえる。
タオルを絞る。水が滴る。
液体的な音。
「水、ぬるくなっちゃってるなぁ」
独り言のように呟く。
「お姉さんに、氷、貰ってきて良い?」
「え?」
「居間に居るかな、ちょっと待ってて」
僕の返事を聞く前に、リンカは勝手に立ち上がり、部屋を出た。
初めて訪れた家とは思えない振る舞いだけれど、
何故だか、あまり気にならない。
止める気力も無い。
姉とリンカ。
変な組み合わせだ。
居間から小さな笑い声が聞こえている。
「はい、お待たせ」
数分後、大量の氷を持って、彼女が現れた。
背後に、何故かマグカップを乗せたトレイを持った、姉の姿。
「何で?」
「何が?」
「何で姉さん、居るの」
「ココア、飲むでしょ?」
当然のように床に腰を降ろすと、
改めて彼女は、ぬるいタオルを水に濡らす。
彼女の隣に、まるで当然のように、姉が腰を降ろした。
「はい、ココア」
「僕、病人なんだぜ」
「病人だって、ココア飲みますよね?」
僕にマグカップを手渡しながら、彼女は姉に問いかけた。
姉は声には出さずに、小さく笑った。
笑っているな、と思った。
なるほど、病人でもココアくらい飲むよな、と僕は思った。
2008.10.01
彼女はモスキート。 第二三話
やがて全てが枯れ落ちる白い季節になっても、其の羽音は鳴り止もうとはしなかった。
何処にどのような道が在って、君をそのように変化させたのかな。
其れとも初めから、そうだったのかな。
緩やかに上昇した熱は、やがて同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。
(初雪は誰かと一緒に見たい?)
今にも崩れてしまいそうな、彼女の声が聴こえる。
透き通った氷の板の上に素足で乗るような、彼女の軋んだ音が聴こえる。
其の熱を、決して上昇させてはいけない。(やがて彼女は、凍えた水の底に沈んでしまうだろう。)
動かしていけないのだ。
動かしては。
溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。

第二三話 『自室(微熱)』
彼女と美術館に行った後から三日間、僕は自室のベッドの中で暮らした。
高熱が僕の意識を朦朧とさせたけれど、可笑しな事に、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じているのだ。
初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、二日目にはTシャツを数回着替えた記憶がある。
三日目ともなると薬と休息の効果か、高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。
部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。
「……寝てる?」
僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。
姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。
再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。
姉。
姉が、この家に戻ってきたのは何年前だったろうか。
一昨年だった気もするし、もう少し前だった気もする。
とにかく姉は一度、この家を出て、そして戻ってきた。
姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、むしろ歓迎すらした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の只中に在った僕にとって、自由を感じながらも、何かを喪失した気分にも近かった。
姉が戻ってくるという事は、もしかしたら幼い自分の中に在った失われた何かを、
再び取り戻す作業なのでは無いかと、幼いながらに小さく期待していたのだ。
ところが戻ってきた姉は、僕が期待していたままの姉では無かった。
其れは始め、小さな違和感だった。
再会した姉は随分と痩せており、小奇麗な服に身を包んでもいた。
近付くと知らない、記憶に無い、甘い匂いが漂い、其れが姉の好んだ香水の匂いだと知った。
実際、当時の僕は大学受験を控えており、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕が感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
やがて時間が経てば、姉の変化を成長と、受け入れる事も可能だったのだ。
ところが僕の進学に伴い、僕と姉は中途半端な時期に、再び離れた。
そのまま数年が過ぎても、気付かずに終わらせる事が出来た。
ところが僕は大学を休学する事になり、此処に帰ってきた。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
否、其の正体は、姉の変化では無かったのだ。
小鳥のサエズリが聴こえる。 枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは黄色のセキセイ・インコだったか。其れとも何色のセキセイ・インコだったか。
姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。
嗚呼、小さな違和感の正体。
其れは、停止。
姉に感じた違和感は変化では無く、
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。
僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたままの僕の足は、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、
音も無いままに脳裏に焼き付けられた。
同じように姉の脳裏にも、
僕が殺した小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。
姉が、其れを日頃、意識しているのかは知らない。
しかし言動の端々に、行動の端々に、姉が失った小鳥の記憶が、
僕が殺した小鳥の記憶が、今も確かに息衝いている事は、まるで疑いようが無かった。
姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。
大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。
だから僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉弟の関係であれば、目を見て話さない事くらい、
もしかしたら、別に自然な事なのかもしれない。
ところが僕と姉の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
それで僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じていた。
額のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させていた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
感謝。
付随する罪悪感。
無言。
美術館の帰り道。
リンカ。
彼女は何と言ったっけ。
(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)
嗚呼、今すぐ僕の温度を下げてくれ。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。
あの瞬間、きっと僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、きっと僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。
罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。
僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。
「一緒が良いよ、僕は」
窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。
「……寝てる?」
姉の声が聞こえて、僕は目を瞑った。
だけれど、すぐに目を開き、絞るような声で、短く答えた。
「起きてるよ」
僕の声に反応するように扉が開き、姉の細い腕が見えた。
其れから少し戸惑うように、部屋を覗き込む。
「……何?」
「玄関に、お友達、来てるけど……」
「……誰?」
わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。
「女の子だけど……」
姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。
何処にどのような道が在って、君をそのように変化させたのかな。
其れとも初めから、そうだったのかな。
緩やかに上昇した熱は、やがて同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。
(初雪は誰かと一緒に見たい?)
今にも崩れてしまいそうな、彼女の声が聴こえる。
透き通った氷の板の上に素足で乗るような、彼女の軋んだ音が聴こえる。
其の熱を、決して上昇させてはいけない。(やがて彼女は、凍えた水の底に沈んでしまうだろう。)
動かしていけないのだ。
動かしては。
溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。

第二三話 『自室(微熱)』
彼女と美術館に行った後から三日間、僕は自室のベッドの中で暮らした。
高熱が僕の意識を朦朧とさせたけれど、可笑しな事に、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じているのだ。
初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、二日目にはTシャツを数回着替えた記憶がある。
三日目ともなると薬と休息の効果か、高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。
部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。
「……寝てる?」
僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。
姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。
再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。
姉。
姉が、この家に戻ってきたのは何年前だったろうか。
一昨年だった気もするし、もう少し前だった気もする。
とにかく姉は一度、この家を出て、そして戻ってきた。
姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、むしろ歓迎すらした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の只中に在った僕にとって、自由を感じながらも、何かを喪失した気分にも近かった。
姉が戻ってくるという事は、もしかしたら幼い自分の中に在った失われた何かを、
再び取り戻す作業なのでは無いかと、幼いながらに小さく期待していたのだ。
ところが戻ってきた姉は、僕が期待していたままの姉では無かった。
其れは始め、小さな違和感だった。
再会した姉は随分と痩せており、小奇麗な服に身を包んでもいた。
近付くと知らない、記憶に無い、甘い匂いが漂い、其れが姉の好んだ香水の匂いだと知った。
実際、当時の僕は大学受験を控えており、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕が感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
やがて時間が経てば、姉の変化を成長と、受け入れる事も可能だったのだ。
ところが僕の進学に伴い、僕と姉は中途半端な時期に、再び離れた。
そのまま数年が過ぎても、気付かずに終わらせる事が出来た。
ところが僕は大学を休学する事になり、此処に帰ってきた。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
否、其の正体は、姉の変化では無かったのだ。
小鳥のサエズリが聴こえる。 枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは黄色のセキセイ・インコだったか。其れとも何色のセキセイ・インコだったか。
姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。
嗚呼、小さな違和感の正体。
其れは、停止。
姉に感じた違和感は変化では無く、
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。
僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたままの僕の足は、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、
音も無いままに脳裏に焼き付けられた。
同じように姉の脳裏にも、
僕が殺した小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。
姉が、其れを日頃、意識しているのかは知らない。
しかし言動の端々に、行動の端々に、姉が失った小鳥の記憶が、
僕が殺した小鳥の記憶が、今も確かに息衝いている事は、まるで疑いようが無かった。
姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。
大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。
だから僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉弟の関係であれば、目を見て話さない事くらい、
もしかしたら、別に自然な事なのかもしれない。
ところが僕と姉の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
それで僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じていた。
額のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させていた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
感謝。
付随する罪悪感。
無言。
美術館の帰り道。
リンカ。
彼女は何と言ったっけ。
(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)
嗚呼、今すぐ僕の温度を下げてくれ。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。
あの瞬間、きっと僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、きっと僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。
罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。
僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。
「一緒が良いよ、僕は」
窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。
「……寝てる?」
姉の声が聞こえて、僕は目を瞑った。
だけれど、すぐに目を開き、絞るような声で、短く答えた。
「起きてるよ」
僕の声に反応するように扉が開き、姉の細い腕が見えた。
其れから少し戸惑うように、部屋を覗き込む。
「……何?」
「玄関に、お友達、来てるけど……」
「……誰?」
わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。
「女の子だけど……」
姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。
2008.09.27
白の丘

「今夜は寒いね」
彼女が最初に言ったのは、何気ない、実にどうでも良い、気温に対する感想で、
それを僕は彼女の隣で、手を伸ばしても届かない距離としての隣で、ぼんやりと聞いていた。
「寒いね、もう夏は終わったからな」
僕等は小高い丘のような場所に立っていた。丘ではない。
只、少しだけ全てを見渡せるような、かと言って海も、川も、町並みさえ見渡せる訳でもない場所で、
そのような小高い丘のような場所で、離れるように寄り添って、並んで立っていた。
「もう冬だもんね」
「否、まだ秋だよ」
紅葉が見える訳では無い。
だけれど今は暦の上で、まだ冬では無いのだから、僕の返答は至極普通だった。
ところが彼女は表情を変える訳でも無く、不満を訴える訳でも無く、当然の事のように言った。
「冬よ、寒いから」
寒いからと言って冬ならば、北極点は年中、冬になってしまう。
冬では無い。それは冬のような春であり、冬のような夏であり、同じように冬のような秋だ。
「秋だよ、寒くても」
「冬だと思えば、冬じゃない」
「否、そんなに単純な問題じゃないよ」
小高い丘のような場所から見える、目の前に広がるべき風景に、僕は呟いた。
目の前に広がるべき風景は、海だとか、川だとか、町並みであるべきだけれど、実際は何も無かった。
只、一面が真白で、その他に色は無く、風だけは感じる事が出来た。
「重さが違うのよ」
「重さ?」
「そう、秋には秋の重さがあって、冬には冬の重さがある」
何の重さ?と問いかけようとして、そこで僕は躊躇した。
僕の頬をすり抜けた冷たい風が、その一瞬間、確かに痛かったから。
「風の重さ?」
「どうかな、それは人それぞれだから」
「だとしたら重さを感じるのも、感じないのも、人それぞれだ」
僕が言うと、彼女は小さく笑った。小さすぎる笑いだった。
「あの続き、書かないの?」
「続き?」
「君が気に入って書いていた、あの小説の続き」
「ああ……」
此処は一面、真白で、何処を眺めているのか、時々わからなくなる。
何処を眺めるのも正解だ。不正解なんて無いんだから。
風が吹き、もしも痛さを感じるならば、その先を睨み付けてやれば良い。
何も無いように見えるだけで、何も無い訳では無いんだ。
「書けるかな?」
「書けないの?」
「さてね、どうだろう」
僕等は変わってしまった。何が変わったのかは解らない。だけれど変わってしまった。
思考が変わってしまった。感情が変わってしまった。視点が変わってしまった。
未来は現在になり、現在は過去になってしまった。そして過去は、
「思い出になってしまった?」
「ははっ、どうだろう」
「はははっ」
白い。白い。真白だ。
綺麗だ。素直だ。正直だ。そして尚、僕は色に憧れている。
「贅沢なんだよ、人間は」
「人間は?」
「否、言い過ぎた、僕は」
真白に憧れる。
その中に一点、色を見付けたい。
僕が進むべき位置を、守るべき場所を知りたい。
「汚れるの嫌い?」
「嫌いでは無い、だけれど僕は」
「白に憧れている」
「白の中に一点、それだけが欲しい」
「贅沢なのね、君は」
寒いな。
もしかしたら彼女の言うとおり、今は冬なのかもしれない。
僕が感じたならば、それで良いのだろう。第一、僕が決めなければ、誰が決めるんだ。
気象庁や、朝の天気予報や、巷の噂話で、冬を決めて良い訳じゃないだろう。僕は冬が好きなんだ。
「自分で決めるよ」
「何の話?」
「さてね、何の話だろう」
此処には何も無いような気がしている。何も無い訳では無い。
彼女の手にさえ届かないような気がしている。決して届かない訳では無い。
重さを知るんだ。自分の重さを知る事だ。僕がイミテイションならば、世界もイミテイションだろう。
それで逃げ場を探しているなら、何て馬鹿げた一人遊びだろう。ところが痛みを感じた瞬間に、重さを知る。
届かない彼女の、存在を知る。
「寒い?」
「そうね、少し寒い」
「だとしたら、今は冬かもしれないな」
「ううん、まだ秋よ」
「ははっ」
この白は、きっとイミテイションだ。
何処に行くべきか解らない、迷った真似をしていた僕が、望んでいただけの白。
汚れを知らないだけの白。決して誰にも届く事は無い白。飾られた白。嘘の白。
「あの続き、書くよ」
「小説の?」
「うん」
「約束、嫌いなんじゃなかったっけ?」
「うん」
嫌いだった。果せる保障が無いからね。
例えば明日の今頃、僕が何を考えているのかさえも、僕には解らなかったんだ。
だけれど憧れるよ。本物の真白に憧れるように、約束が果される日に、僕は少しだけ憧れている。
さぁ、今から僕等は何処へ進むべきか。望むように進んでみよう。今から僕は冬だ。僕の大好きな冬だ。
イミテイションな白は、もうじき全て消えるだろうから、そうなれば僕等は離れ離れだ。望むように進めば良い。
後生会えないかもしれないから、小さな約束を一輪、植えておきたい。
やがて此処にも本当の冬が来るよ。
僕等が自分で決めようとも、決めなくとも、有無を言わせぬ冬が来るだろう。
小さな約束を一輪、植えさせてくれ。
どんな約束かは言わない。
きっと彼女は、もう知っていると思うから。
只、僕等は真っ直ぐに、汚れても尚、純粋である事を願うんだ。
「今夜は寒いね」
そうだね。
さようなら。
こんにちは。
全ては僕等が決めた季節に従って。
白い、小高い丘のような場所に風が吹き、次の瞬間、僕等はいなくなった。
2008.09.25
R

全ての絶望を追うようにして 全ての希望が始まろうとしている
君なんかには 僕の気持ち 解るはずもない
だけれど解って欲しいと願うんだ
世界は見えないモノだらけ
見えるモノばかり信じていたら 何にも信じられなくなっちゃうぜ
僕が伝えたかったモノは どれだけ伝えられたんだろ?
何にも伝わらなかったかもって 眠れない夜に限って
世界は僕等の目の前に 笑って姿を現すんだぜ
見えたんだ 見えた気がしてるんだよ サバイバー
生き残ったんだ 今更 死ぬ理由なんか無いだろう
何もかも遅すぎるんだぜ 素晴らしいじゃないか too late to die
何を迷ってんだ 一緒に笑っちまえばいい 世界も笑ってんだろ
全ての後悔を覆うようにして 全ての航海を終えようとしている
僕なんかには 君の気持ち 解るはずもない
だけれど知ってみたいと思うんだ
世界は食えないモノだらけ
食えるモノばかり蓄えていたら 何にも楽しくなくなっちゃうぜ
君が伝えたかったモノは どれだけ覚えていられるんだろ?
もし全て忘れちゃったとしても 悪く思わないで欲しいんだ
どうせ僕は思い出すよ 君の知らない 世界の何処かで
見えたんだ 見えた気がしてるんだよ サバイバー
立ち上がったんだ 今更 迷う理由なんか無いだろう
何もかも遅すぎるんだぜ 素晴らしいじゃないか too late to die
何を願ったんだ 僕等は一人だけれど 別に孤独じゃないんだぜ
世界の気持ちが解らないんだろ 解るはずもないぜ
これから探しに行くところ 今から僕が 探しに行くところ
世界の気持ちが解らないんだろ 解るはずもないぜ
これから探しに行くところ 今から君を 迎えに行くところ
2008.09.24
サヨナラ火星

僕は混乱した意識の中で また夢を見てる
君の後髪を掴もうとして 掴み損ねた 嗚呼 また何にも無いや
空間に水色
体内に白濁
どちらも僕が伝えたかったモノだ
単純に言うなれば 種を残したい気分 防弾ガラス越しの
無酸素の花に熱を与えてくれよ 僕の心臓よ 足りないな
空中線上に球状に浮かんで 弾けて消えてしまえば良い
振り返るなよ オルフェウス そろそろ飛ぶ時間だ
白化して望めよ
振り返るなよ オルフェウス そろそろ飛ぶ時間だ
覚悟して臨めよ
2008.09.23
夕暮れスロウ

頭と体がバラバラなので 出来ない理由を探しているよ
一昨日の夜はブルー 昨日の夜はイエロー 今日の夜はどんな色だろ
こねくり回して最後には 何にも知らないって事ばっか 知ってる気分になっちゃうよ
だけど知ってるよ 君の名前 君の仕草 君の泣き顔だって知ってる 嗚呼 君の笑い顔は知らない
夕暮れはスロウに伸びて 僕の心臓まで
感覚的に捉えたままで 描けない君の輪郭まで
足早に過ぎる 惰性で流れる 放物線状の時間の隅々まで
夕暮れはスロウに伸びて 次の心音まで
夕暮れはスロウに伸びて 次の心音まで
縮んで 弾ける ほんの一瞬まで
紡いで 届ける ほんの一瞬まで











