VOSTOK8 blog - Astronaut' Monologue TOP  >  長編:鉛色のサンデー

鉛色のサンデー あとがき



若者における「鉄砲」とは何か。

それは「撃ち放つと面白いもの」に他ならない。
撃ち放つとは、すなわち「したい事をする」事と同義語である。
したい事をすると面白い、というのは、なるほど確かに、道理にかなっている。

一昔前の若者が、深夜に大音量でバイクを乗り回せば面白いと思っていたのも、
夏になると深夜に爆竹やロケット花火を鳴らしたがるのも、ほとんど似たような心理だ。
それは「撃ち放つと面白いもの」であり、面白いからこそ、自分がしたい事をするのである。
そこに理由は必要ない。

ある時の夏の終わりに、高広は「鉄砲」を拾う。
それは「撃ち放つと面白いもの」である。ロケット花火のようなものだ。
ところが高広は、それを撃とうとはせずに、部屋の机の引き出しに閉まったままにする。
そしてこう考える。

「撃とうと思えば、何時でも撃てるのだ」

若者が子供から大人へ成熟していく過程の中で重要なのは「行動の理由を見付ける」事だ。
自分がそうしなければならない理由を見付ける事で、行動に責任が生まれる。

世の大人達は何も「仕事が楽しくて仕方が無い」から、毎日働いているとは限らず、
それでも好きな人が出来て、愛する人が出来て、その生活を守る為に働いていたりする。
愛する人達と生活していくには金が必要であり、そこに「行動の理由」を見付ける人もいるだろう。
その過程の中で責任感が養われるのだ。

高広は考え続ける。
何の為に、誰の為に、それをしなければならないのか。
そう考えた時に、鉛色のサンデーという作品は、ほとんどが自問自答の物語である。

撃ち放てば楽しい事は解っている。
だが撃ち放たなければならないなら理由をくれ、と叫び続ける。
高広は、行動に面白味を求めている訳ではなく、ひたすらに責任感を求めている。
だから高広は、他の同年代の若者と同じように、衝動的な快楽の為に鉄砲を撃ち放たりはしない。

ひたすらに、理由を求めている。
そうして自分が「鉄砲を撃たなければならない理由」を見付けた時に、
初めて高広は自分から行動する。雷雨の中、記憶の踏み切りを越えて、自分から行動するのだ。

だから最終話にほど近い場面で、
高広が「ははっ」と笑う場面は、驚くほど残酷である。
それまで積み重ねてきた理由が崩壊するならば、驚くほど残酷である。
驚くほど残酷ではあるが、あの瞬間に、高広は若者から大人になったのかもしれない。

鉛色のサンデーとは、そういう物語である。
それは完全な幸福でも、完全な不幸でも無い、中間色の物語である。
それは丁度、若者でも、大人でも無い、まだ何者でもない誰かの為の物語であるだろう。
黒と白の絶妙なコントラストから、最終的な回答へ。

そしてまた、何処かで誰かが、あの鉄砲を拾うのだ。

鉛色のサンデー 最終話(後編)

大きく、緩やかに、湾曲する最終コーナー。

走り高跳びをする、あの子の曲線ようにも見える。

空中に架けられた、七色の放物線のようにも見える。


大きく腕を振り、前へ。

更に一歩前へ。

更に一歩前へ。

残りの直線を走れば、ゴールラインが見える。


腕を振り、脚を上げ、息を吐き、衝動は突き抜ける。

回転を続ける弾丸は、何処に向かって飛ぶのか。

東京湾を、静かに、若い男女が歩いて居る。







最終話 『弾丸の行方(後編)』




空缶が転がって居た。
塗装が剥げて、鉛色に錆びた、古い空缶だった。
空缶は泥だらけの水溜りの上に、只、宛も無く浮んで居る。

男は空缶を拾い上げると、それを道端の屑篭に放り投げた。
空缶は、大きく緩やかな放物線を描いて、空中を舞った。

防波堤を穏やかに打ち返す、波の音が聴こえる。
男は黒色のパーカーのフードを頭に被り、女の手を引いた。
女は白色のニット帽を目深に被り、男の手に引かれるままに歩いた。
どちらも顔は、よく見えない。

巨大な船が、遠くを泳いで居る。
波は静かに揺れ、真上からゆっくりと落ちる太陽が、それを照らして居る。

風は穏やかだった。
時折、女の黒髪を撫でるように揺らしたが、それは優しい風だった。
五本の指で薄く触れた絹のような秋の雲が、青空に張り付いて居る。
重なるように、解れた糸のような、飛行機雲。

飛行機雲は一直線に伸びて、先端に太陽が被さって居る。
飛行機雲は太陽の尻尾のようにも見える。

「あの飛行機雲はさ」

男が口を開いた。

「誰かが太陽に向かって、飛んで行ったみたいだよね」

女は空を見上げた。

女は特に感想を言わずに、静かに空を見上げて居た。
男は特に感想を求めずに、静かに空を見上げて居た。

男と女は静かに立ち尽くすと、空を眺めた。
遠く、本当に遠くを、悠然と飛行機が飛んで居る。
あの飛行機雲を残した、飛行機では無いだろうが。

飛行機はゆっくりと飛び、沈み行く太陽の、すぐ真下を通った。

「あの飛行機は、太陽を運んでるように見えるよ」

男が呟くと、女は頷いた。

「巨大な飛行機は、下から全てを持ち上げるんだ」

男は女の手を引き、再び歩き始めた。

巨大な船が、海上を鯨のように泳いで居る。
もしかしたら素早く泳いで居るのかもしれなかったが、
遠くから眺める者には、それはゆっくり泳いで居るように見える。
地球が太陽の周囲を旋回して居るように。

女は酷くゆっくりと歩いた。
外を歩くのは久し振りだったから、体は以前より衰えて居た。
細かった足は、更に細くなったような気がするし、
細かった腕は、更に細くなったような気がするが、
少なくとも男にとって、それは決して悲しい事では無かった。

今ならば、女と同じ速度で歩けるような気がしたからだ。

男は女の手を引いて、歩いた。
時には止まって休み、時には座って語らう事も出来た。

気が付くと巨大な船は、小さなゴマ粒のようになって居た。
周囲には人も無く、波の音と、歩く音だけが聴こえた。
男はポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。

煙草を深く吸い込んで、吐き出した煙を眺める。

細く糸を引く煙の先は、何処かに繋がって居るような気がする。
宝探しの地図を眺めるように、何度でも煙を吐き出した。
北極点を越え、赤道を越え、マクマード湾を経て。

遠くの地面に、何かが刺さって居るのが見える。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

不意に、穏やかな風が吹いた。
煙草の煙は風に流され、長く伸び、消えて往く。

極寒のマクマード湾を経て南極点に出発したスコット隊が、
目指した場所で目にしたモノは、一体何だった。

風に揺れるソレは、絶望だったはずだ。
スコット隊は意気消沈の中で、南極点を後にした。
その帰路の途中で、彼等は遭難し、凍死し、そして全滅した。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

ノルウェーの国旗を眺めて、ロバート・スコットは何を思ったか。

(I do not regret this journey which shows that
 englishman can endure hardships.
 Help one another and meet death
 with as great fortitude as ever in the past.)

一体、何が悪かった?

最後まで悩み苦しんだのだろうか。
最後まで嘆き悲しんだのだろうか。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

次第に鮮明になるソレを見て、思わず男は笑った。
男は女の手を引いて、そのまま歩き続ける。
足取りは軽くも無く、重くも無い。




風の中に、旗が揺れて居る。




それは旗だった。
真白な、決して大きく無い旗だった。
真白な、決して大きく無い旗が、穏やかな風に揺れて居る。

男と女は、ゆっくりと歩き、その旗の元に辿り着いた。
男と女は、その旗の元に辿り着くと、地面に突き刺さった棒に触れた。

何の変哲も無い、単なる木の棒だった。
誰かが悪戯で地面に突き刺したのかもしれなかった。

真白な旗が、只、風に揺れて居る。
純白では無い。
風に揺れる度に、文字が見える。
下手糞な文字が、油性マジックで書かれて居る。

(世界の果て)

小学生が書いたような下手糞な文字。
此処に来た子供が、遊びにでも使ったのだろうか。
此処で遊んで放置したまま、帰ってしまったのかもしれない。

男は笑った。
男は木の棒を力強く握ると、それを地面から引き抜いた。
女は男の手を力強く掴むと、それを地面から引き抜いた。
雨上がりの地面は柔らかく、旗は泥を滴らせながら、簡単に抜けた。

引き抜いた旗を地面に置くと、実に呆気なく、
世界の果ては、単なる東京湾に戻った。

防波堤を穏やかに打ち返す、波の音が聴こえる。
男は煙草を深く吸い込むと、その指を静かに離した。
地面に落ちた煙草を、靴の裏で踏むと、短く笑った。

東京湾が見える。
穏やかな風に揺れる、東京湾が見える。
女は東京湾を眺めながら、男の手を強く掴んだ。

「東京湾は、何色?」

女が小さく、言葉を発した。
男は東京湾を眺めたまま、動かなかった。

「東京湾は、水色だよ」

男が小さく、言葉を発した。
女は東京湾を眺めたまま、動かなかった。

「何処まで行っても、水色のままだよ」

女は不思議そうに男の横顔を眺めながら、小さく呟く。

「何処まで行っても?」

「何処まで行っても、水色のままだよ」

男は東京湾を眺めたまま、女の手を、強く握り締めた。




太陽が、手を伸ばして居る。




水は色を変えるだろう。

澄んでも、汚れても、水は水のままで、色を変えるだろう。


昼になれば青色に。

夜になれば黒色に。

雨が降れば灰色に。

雪が降れば白色に。

夕陽を浴びて、オレンジ色に。


汚されて泥濘になる事もあれば、

洗われて透明になる事もあるだろう。


それでも、水は、水で在る限り、水色だ。

水の色だ。




「汚れても、尚、水色」




女は、静かに微笑んだ。
東京湾を眺めながら、女は静かに微笑んだ。

男は手を離すと、背中のリュックを肩から外した。
リュックのジッパーを開けて、右手を入れる。
ゆっくりと、重そうに何かを取り出す。

男は宝物を見せるように、ソレを掌に乗せた。
女は何も言わずに、取り出されたソレを見た。

「引き出しの中の秘密」

それは鉄砲だった。
太陽を浴びて鉛色に輝く、鉄砲だった。

「引くほど酷いエロ本だろ?」

悪戯のように言うと、男は一人で笑った。
女は表情を変えずに、男の目を、静かに見詰めて居る。
男は手の中の鉄砲を、何度か角度を変えながら、何も言わず眺め続けた。

「本当に、何度見ても、引くほど酷いエロ本だ」

男は東京湾に向き直すと、小さく息を吸った。

沈み往く太陽が見えた。
波は揺れて居る。
音は止んで居る。

男は静かに両手を前に出して構えると、撃鉄を引き起こした。

其処には何も無い。
何も無いが、空と海は在った。
男は小さく息を吐き出すと、引き金を引いた。








ドォォォォォォォォン。








空と海に、銃声が響いた。
反響するように、銃声は何処までも伸びた。

男は何も言わずに、女の手に鉄砲を渡した。
女は少しだけ困惑した表情をしながら、ソレを受け取る。

音は無い。
声は無い。

衝動だけが、世界に照準を合わせる。

何の為に。
誰の為に。

男は女の指に手を添え、先程と同じように、撃鉄を引き起こす。
女は両手を前に伸ばし、力強く、何も無い世界に向けて構える。


叫べ。

此処に存在するのだと叫べ。

泣け。

此処に存在するのだと泣け。

笑え。

此処に存在するのだと笑え。


撃ち出せ。

止め処なく続く憂鬱を。

止め処なく続く空虚を。

止め処なく続く無力を。

止め処なく続く焦燥を。

止め処なく続く退屈を。

止め処なく続く悔恨を。


どうしようも無かった感覚を。

どうしようも無かった現実を。


弾丸を、糞ったれな現在に向けて、精一杯に。


「撃て」
































ドォォォォォォォォン。
































銃声が、高く、低く、世界にコダマして居る。








緩やかな風に乗る、硝煙を眺めながら、男は言った。

「弾丸は溜め込むなよ」

硝煙は風に乗ると、空中で、柔らかな曲線を描いた。

「暴発する時には、手遅れなんだ」

曲線は高く舞い上がると、空気に混ざりながら散った。

「たまには撃ち出すのも、気持ち良いモンさ」

そこまで言うと、男は向き直る。
それから言おうか言うまいか迷うような仕草を見せて、
やはり言わない事に決めると、代わりに女の頭に手を伸ばした。

男は、女の白色のニット帽を脱がせると、女の耳に触れた。
ブルーチタンの温度が、静かに、伝わった。

女は何も言わず、男の手に、自分の手を重ねた。
貝殻に耳を当てるように、穏やかに目を閉じた。

女は、男の黒色のフードに手を伸ばすと、男の耳に触れた。
ブルーチタンの温度が、静かに、伝わった。


太陽が、手を伸ばして居る。


水は何度でも繰り返すだろう。
色を変えながら。
形を変えながら。

水は何度でも繰り返すだろう。
氷に変化しながら。
煙に変化しながら。

空から海まで。
その中間まで。

男は微笑みながら、ジーパンのポケットに、手を入れた。
ポケットの中に、何か入って居る。

男はそれを取り出すと、思わず笑った。
それはポケットの中で小さく丸まった、紙切れだった。
消えかけた店名と、地図と、割引金額が、まだ微かに読み取れる。
思わず笑った。

男はそれを手の中で転がすと、東京湾に向かって投げた。
それは小さな音を立て水面に浮び、静かに沈んで往った。
音も無く、深く、深く、沈んで往った。

男と女は、鉄砲を、先程の真白な旗の上に置いた。
世界の果ての上に、鉛色の鉄砲を置くと、再び歩き始めた。


太陽に、手を伸ばす。

何度も、手を伸ばす。

届くとも、届かずとも、何度でも。

太陽に、手を伸ばしたいから、手を伸ばす。


手を繋ぐ。

共に歩く。

女が男の横顔を眺めて居る。


「何?」

男が訊ねる。

「何?」

女が訊ねる。

男は笑いながら「何が?」と問いかける。


「何を投げたの?」

「さっきの?」

「うん」


男は一人遊びを分け合うように、楽しげに言った。


「毬藻の種を撒いたのさ」

「毬藻?」

「毬藻は綺麗な水の中じゃなきゃ、育たないんだよ」

「毬藻?」

「だから東京湾で毬藻を育てたら、きっと名誉都民になれるよ」


女が笑った。
女が楽しそうに笑った。
女が楽しそうに笑ったので、男は笑った。


「毬藻に種って在るの?」

「知らないけど」

「何それ」


変わらないようで、変わって往く、全てのモノ達へ。

僕等は何も変わらない。

何も変わらないようで、何かが変わりながら、此処まで来た。


土曜日が、やがて日曜日になるように。

日曜日が、やがて月曜日になるように。


其処に居た僕等は、何も変わらないはずだった。

曜日の名前が、毎日、変わっただけだったんだ。


だけれど、今日、僕等は此処に居る。

何も変わらないようで、何かが変わりながら。


空は未だ青く、海も未だ青かった。

だけれど、今。
だけれど、今。

少なくとも、今は太陽の光を浴びて、どちらも銀色に輝いて居る。

静かに微笑みながら、女は言った。


「素敵な日曜日を、ありがとう」


止め処なく流れる日常の中で。

止め処なく流れる生命の中で。


少なくとも、今。


太陽の光を浴びて。

日曜日は銀色に、輝いて居る。

世界は本日も、渦を巻いて、回転して居る。



■鉛色のサンデー 完

鉛色のサンデー 最終話(中編)

回転しながら突き進む弾丸。
もしも意味を持たせるならば、僕と君の為で在れば良い。
誰の為にもならない事ならば、誰の身にも優しくない事なんだ。

撃ち放たれた弾丸は、最終的な回答を待ち望んで居る。
北極点から赤道を越え、マクマード湾を経て、南極点まで。
風に揺れる旗は、季節を越えて、僕と君に引き抜かれるまで。

例えば小さな喫茶店の、窓際の席まで。






最終話 『弾丸の行方(中編)』




「東京の空は低いな」

似合わないネクタイを締めた、初老の男が言った。
対面の座席には、薄手のカーディガンを着た少女が座って居る。

「飯、食ってんのか?」

地方の訛りが色濃い言い方で、男が言った。
少女は男の台詞を聞くと、静かに微笑んでから頷いた。

「お父さんこそ、ちょっと痩せたでしょ」

男は特に笑いもせず「引き締まったと言え」と言い返した。

特に会話は無かった。
今に始まった事では無く、昔からそうだった。
特に会話らしい会話もせず、単に近くに居るだけだった。

「仕事、忙しいの?」

それは拒否だとか、断絶だとか、とは少しだけ違った。
特に好きでは無かったし、特に嫌いでも無かった。
あえて言えば普通だったが、しかし一点だけは嫌いだった。

「忙しいさ、今、観光シーズンだもんな」

「忙しいのに、東京来ちゃってるじゃん」

「そんなモン、お前、当たり前だべ」

あの土地が嫌いだった。
あの土地に住み、満足そうに生きて居る父が、嫌いだった。
父の言葉の訛りが嫌いだった。
あの土地で生きて往く事を、強制されるようで、嫌いだった。

「娘が心配だったら、すぐ飛んでくるモンだ」

「別に心配する事なんて無いのに」

入口の扉を開く、鈴の音が聞こえた。
大学生風の二人組の男が、席を探して居るのが見えた。

「こんな空の低い町に住んでたら、病気になっちまうわ」

「ならないよ」

少女は小さく笑うと、窓の外を眺めた。
太陽は徐々に高さを増して、間も無く真上に届きそうだった。

空が低いとは思わない。
空が低いならば、太陽にも手が届くだろうか。
低くても、高くても、どちらにせよ届く訳は無いのだけれど。
それでも、この町の空が低いとは思わない。

あの町の空はどうだったか。
灰色の空が延々と続いて居たような気がする。
それが高かったのか、低かったのかさえ、よく思い出せない。

「仕事、どうなってるんだ」

父が訊ねると、少女は視線を店内に戻した。

「今は何もしてないよ。
 最近まで働いてた店も無くなっちゃったからね」

「倒産したのか」

「ん」

少女は適当に言葉を濁した。

正確に言うと、少女が仕事を辞めたのは、職場が無くなる前だ。
職場が無くなる直前と言っても良い。

少女は店主に、突然、退職の意思を告げた。
意思を告げたと言っても、大層な理由は無かった。
何となく、その日の内に仕事を辞めてしまいたくなったのだ。
店主からは暴力を受けた。

(それは性的な暴力と言っても差し支えなかった)

少女は足の靭帯を、ほんの少しだけ痛めた。
それでも、明日から働かなくても良いと思うと、気分が楽だった。

すぐにでも次の仕事を探さなければならなかったが、
足の靭帯を痛めてしまったので、休養が必要だった。
すぐに治る気で居たのだが、痛みは予想以上に長引いた。

生活資金が底を尽いた頃に、少女は実家に電話をかけた。
それは少女が実家を飛び出してから、初めてかけた電話だった。
母が電話に出たので、頭を下げて、ほんの少しの仕送りを頼んだ。

そして今、父が目の前に居る。



「喫茶店と言えばナポリタン!」



遠くの席で、間抜けな声が聞こえる。
少女は遠くの席を眺めると、何となく笑った。

「靭帯伸ばすような仕事って、現場仕事か」

「まぁ、そうだね」

「お前は昔から、よく怪我ばっかりしてたもんな」

「そうだっけ?」

頬杖をしながら父の台詞を聞いて居ると、何だか眠くなって来た。
別に父の台詞に退屈を感じて居る訳では無い。
聞いて居ると、眠くなるのだ。

心地よい。

ああ、多分それだ、と少女は思った。
あの町で暮らして居た頃に感じたような嫌悪感は、
今は何も感じなかった。

酷く懐かしかった。
灰色の空だとか、灰色の湖だとか、灰色の町が、
少女の記憶の真ん中に、何時でも見えて居たが、
果たして本当に灰色だったのだろうか、と考えた。

灰色だったような気がして居るだけでは無いだろうか。


「お父さん、パフェ頼んで良い?」

「ああ、良いよ」


少女は眠気を覚まそうと、パフェを注文する事にした。
メニュー表を取り出すと、デザート欄を指差して、パフェを探す。

「あ、パフェ、無いや」

少女は呟いたが、すぐに代わりのモノを指差した。
手を挙げてウェイトレスを呼ぶ。

「生クリームサンデーひとつ」

ウェイトレスは伝票に文字を書きながら、訊ね返す。

「アイスの種類が選べますよ」

少女は「あ、本当だ」と言いながら、メニュー表を見直す。
人差し指を上から下に移動させながら、好みを吟味する。
父は煙草に火を点けながら「水、おかわり」と言った。

「じゃあ、黒ゴマ!」

少女は元気良く希望を宣言すると、
メロン・ソーダの入ったグラスのストローを吸った。

「黒ゴマのパフェなんて美味しいのかい」

煙草の煙を吐き出しながら、父が問いかける。
少女は少しだけ不服そうに、言い返す。

「あ、酷い!お父さんが言ったんだよ!ゴマ食べろって!」

「え、そんな事、言って無いだろ」

「今じゃないよ、昔!」

「昔?」

少女は不服を宣言するように、
ストローに息を吹いて、メロン・ソーダを泡立たせた。

「子供の頃さ、言ったじゃん」

「何て?」

「頭が良くなるから、ゴマ食べろって」

「そんな事、言ったか?」

「言ったよ!」

父は煙草の灰を、灰皿に落としながら考えた。
言ったような気もするし、言ってないような気もするが、
恐らくは言った可能性の方が、実に高かった。

「でもさ、白ゴマは何かさ、白くて気持ち悪いじゃん」

父は笑った。
あまりにも白ゴマに対して失礼すぎる。

「だから、黒ゴマばっかり食べるようになっちゃった」

父は笑いながら煙草の火を消すと、優しげに言った。

「ゴマは栄養あるからな」

「だから食べてたんだよ!頭が良くなるって嘘なの?」

父は少女を眺めながら、実に楽しそうに、微笑んだ。
少女の無邪気さだとか、純真さだとかは、何も失われて居ない気がした。

「まぁ、何処の家の親も、似たような事を言ってるさ」

「酷い!何その理由!」

「似たような女の子、お前の他にも沢山居るかもな」

「お父さんの嘘吐き!」

少女は父を責めたが、口調は笑って居た。
父の言葉を信じて、黒ゴマを食べ続けた自分が馬鹿みたいだったが、
父との約束にも似た会話を、守り続けた自分が少し誇らしくも在った。

故郷の空が真青に、高く、広がって居るような気がした。

父はグラスの水に口を付けると、
少しの間だけ、何かを考えるような表情をした。
考えると言うよりは、言うべき台詞は既に決まって居て、
それを口から発する為の決断をして居るような表情に近かった。

父は少し真剣な表情をして、少女を見た。
そして言う。


「なぁ、真里」


少女はゆっくりと顔を上げた。


「帰って来い、家に」


父は手を組み、それ以上は何も言わなかった。

真里と呼ばれた少女は、父の顔を眺めた。
それからグラスのストローを咥えて、息を吸い込んだ。
中身の入って居ないグラスでは、息を吸う音しか響かなかった。

ゆっくりと、ゆっくりと、だけれどしっかりと、真里は微笑んだ。

そして言った。


「ごめんね、お父さん」


真里は確実に息を吸い込み、大切そうに言葉を続けた。


「嬉しいけど、もう少しだけ、東京で頑張りたいの」


父は何も言わずに、真里の言葉を待って居る。


「ねぇ、お父さん、東京湾は、何色だと思う?」


父は考えながら、静かに言葉を捜した。


「ねぇ、お父さん、東京湾で、毬藻を育てたいの」

「毬藻?」

「そう、阿寒湖で育てるような、大きな毬藻だよ」


父は笑わなかったし、父は怒らなかった。
唯、静かに言葉の意味を受け入れる努力をして居た。
父は煙草に手を伸ばすと、ゆっくりと火を点けてから、言った。

「まさか東京湾で毬藻の養殖をしたいって言ってる訳じゃないよな」

冗談か本気か解らない口調で、言った。

「似てるけど、少し違うよ」

真里は笑いながら、答えた。

「じゃ、解った」

父が言った。

父は満足そうに煙草を吸い込むと、窓の外を眺めた。
東京の空は満更、低くも無いような気がしたが、それは言わなかった。

真里も静かに窓の外を眺めた。
先程の太陽が、真上に届いて居る事に気付いた。
窓に人差し指を当てると、太陽を指先に乗せて居る気がした。

ウェイトレスが、生クリームサンデーを運んで来た。

気が付くと店内には、父と真里以外に、客は居なかった。
真里は「わぁ、スゴイ」と、至極健全な少女の感想を漏らしながら、
細長いスプーンから紙ナプキンを外すと、一口分のアイスを掬って食べた。

黒ゴマの香りが、口の中に広がって往く。
黒ゴマは生クリームと、絶妙に混ざり合った。
黒と白が、絶妙な色彩を生み出して居た。

「ねぇ、お父さん、知ってる?」

「何を?」

「パフェとサンデーの違い」

真里は学芸会の主役を射止めた時のような、得意気な表情で言った。
父は微笑みながら「知らないな」と言って煙草を吹かす。
真里は「あのね」と前置きしてから話し始めた。

「パフェとサンデーは、どちらも同じなの。
 だけどね、入ってる器が違うの。

 パフェは細くて長い器。
 サンデーは大きくて広い器。

 面白いでしょ?
 同じモノだけど、器が変わると、名前も変わるの」

真里の演説を聞くと、父は「へぇ」と呟いた。


弾丸が回転して居る。

弾丸は終着点を目指して進んで居る。

だけれど終着点は、名前を変えて、また出発点へと。

日曜日が、名前を変えながら、また何度でも繰り返すように。


弾丸が回転して居る。

小さな喫茶店の窓際の席の、綺麗なガラスを突き破り、

一直線に、空を舞い、地を這い、海を潜り、

東京湾まで辿り着く。


太陽が、手を伸ばして居る。

東京湾を、静かに、若い男女が歩いて居る。

弾丸は、まだ回転して居る。
目次
★説明




★短編






★長編小説














★短編






★お笑い








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