VOSTOK8 blog - Astronaut' Monologue TOP  >  長編:彼女はモスキート。

彼女はモスキート。 目次

彼女01

■彼女はモスキート。(2006年)

「君は、私になれる?」

歩道橋を、毎日、僕は渡っていた。
圧倒的な存在感を撒き散らす、赤い眼をした彼女に出逢うまでは……。

――――――――――――
第一話   『歩道橋(赤)』
第二話   『彼女と漫画喫茶(初/壱)』
第三話   『彼女と漫画喫茶(初/弐)』
第四話   『彼女と漫画喫茶(初/参)』
第五話   『彼女と漫画喫茶(初/肆)』
第六話   『彼女と漫画喫茶(初/伍)』
第七話   『彼女と漫画喫茶(初/陸)』
第八話   『歩道橋(紺)』
第九話   『自室(夢想)』
第十話   『記憶(古本屋)』
第十一話  『歩道橋(黄)』
第十二話  『彼女と漫画喫茶(次/壱)』
第十三話  『彼女と漫画喫茶(次/弐)』
第十四話  『彼女と公園(空瓶)』
第十五話  『彼女と公園(空缶)』
第十六話  『自室(無風)』
第十七話  『記憶(小鳥)』
第十八話  『歩道橋(黒)』
第十九話  『彼女と地下鉄(中間)』
第二十話  『彼女と美術館(具象と色彩/壱)』
第二一話  『彼女と美術館(具象と色彩/弐)』
第二二話  『彼女と美術館(具象と色彩/参)』
第二三話  『自室(微熱)』
第二四話  『自室(潜熱)』
第二五話  『自室(焦熱)』
第二六話  『自室(解熱)』
第二七話  『現実(租借)』

彼女はモスキート。 第二五話

熱。

温かい。

音。


湯気。

空気。

会話。


温度。

上昇。

存在。


君の真実は、僕の嘘。

僕の真実は、君の嘘。

只、僕は其れ等を、共有してみたかった。




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第二五話 『自室(焦熱)』




「久し振りに見たよ」

温かい紅茶を飲み終えた後で、僕は最初に言った。

「何を?」

「笑った顔」

「誰の?」

悪戯を終えたような顔で、彼女は笑いながら言った。

「姉さんの」

姉は既に此処に居なかった。
居間からは水道水の流れる音が聞こえた。
僕は目を閉じ、無音の中で響く、其の音を聴いた。

「仲、良くないの?」

「さてね、どうだろう」

普通の姉と弟の関係は。
あまり笑った顔を見ない事くらい、変わった事では無いと思う。

「君は兄弟、いないの?」

「さてね、どうかしら」

姉と僕の関係は。
笑った顔を見せる、見せないの関係では無くて、
許せるか、許せないかの関係として、長らく成立していた。
少なくとも僕自身の中で。

「そう言えば」

僕は目を開き、先程、彼女が取り出した赤と白のスタンプカードを思い出した。

「漫画喫茶で住所なんて教えてくれるの?」

僕が訊ねると、彼女は少し呆れたような表情で、教えてくれる訳ないじゃない、と言った。

「だけど、君」

「教えて貰ったよ」

明らかに矛盾した事実を告げると、彼女は鞄の中から、赤と白のスタンプ・カードを取り出した。

「誰に?」

「誰かに」

「何で?」

折り畳まれた赤と白のスタンプ・カードの中には、小さなメモ紙が挟んであった。
細長い指で取り出すと、彼女は其れを楽しそうに読み上げた。
僕の家の住所だった。

「確かに」

呆れた声で、僕は続けた。

「どうして僕の家に?」

最初に玄関で訊ねたのと同じ質問を、僕は繰り返した。
お見舞いに来たのよ。
其のような返答を、期待して居たのだと思う。

僕等は共に並んで、歩道橋の上から初雪を眺めた。
あの瞬間、僕等は一緒だった。
一緒の存在だった。



(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)



だから、今から数秒間に起きた、其の短い出来事を、僕は永遠に忘れないと思う。

其の瞬間の彼女は動きは、とても自然だった。
まるでスタンプ・カードを取り出すのと同じに、
鞄の中に手を入れて、小さく笑った。
小さく笑いながら、言った。

「本当に、一緒は良いかな、吉川くん」

窓の外では雪が降り続いて居たのだろうけれど、あまり気にならなかった。
本当は、常に気にしておかなければならなかった。
もう季節は変わったのだと。

「ごめんね」

彼女が鞄から取り出したモノ。

其れが何なのか、最初、僕には解らなかった。

彼女の掌よりは大きくて、固く、其れから酷く冷たかった。



其れまで信じた全ての、

音が、

色が、

感覚が、

感情が、

窓の外の雪に吸収されて、

消えてしまうような気がした。








「君は、私になれる?」








其れは鉄砲だった。








君の真実は、僕の嘘。

僕の真実は、君の嘘。

只、僕は其れ等を、共有してみたかった。


分かち合いたかった。

分かり合いたかった。

君を、僕と同じように、理解してみたかった。


延々と一緒が良かった。

脈々と一緒が良かった。

心臓が、僕の中で鳴り続けるのと同じように。

欠ける事無く同じであれば、良かったのにな。


嘘では無いよ。

彼女はモスキート。 第二四話

彼女が立って居た。
冬色の厚手のコートを着て、大きな鞄を肩から下げて、
重そうなブーツを履いて、玄関先に立っているリンカを、僕は見付けた。

其れは初めて出逢った日の彼女に、よく似て居た。
あの日と違うのは、今は雪が降っている事。
そして彼女の髪が、白色だった事。

真白な風景の中で、彼女の眼だけが、赤かった。




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第二四話 『自室(潜熱)』




「眼鏡は?」

実にどうでも良い疑問が、最初に僕の口を吐いた。
彼女は何も言わずに悪戯っぽく笑うと、ポケットの中から眼鏡を取り出した。
彼女の眼と同じ真赤な縁取りの眼鏡をかけると、わざと僕とは眼を合わさずに、また小さく笑った。

「どうして僕の家に?」

現実感覚の希薄な、酷く夢のような会話の中で、僕は彼女に問うた。
眼鏡をかけた真白な髪の彼女は、大きな鞄の中に手を入れると、小さな紙切れを取り出した。
赤色と白色のストライプで飾られたのは、漫画喫茶『SQUADRON 633』のスタンプカードだった。
1088。

「調べたの?」

「君は私を家に上げてくれるの?」

僕の疑問を遮るように発せられた彼女の疑問に、思わず僕は手を伸ばした。
彼女の手を取り、引き寄せて、玄関の扉を閉める。
風が止み、雪は見えなくなった。

「寒かった?」

「愚問」

「よく調べたね」

僕が言うと、彼女は笑った。
重そうなブーツを脱ぎ、背筋を伸ばすと、歩き始める。

「其処を左」

僕の声に反応するように、廊下を曲がり、扉を開ける。
瞬間的な、温度。

リンカが僕の部屋に居る。
其れは酷く非日常的で、奇妙な感覚だった。
彼女は鞄を床に降ろすと、周囲を見回しながら、冬色のコートを脱いだ。

「貸して」

ハンガーを手に取りながら、僕が手を伸ばすと、また彼女は笑った。

「病人は寝てなさいよ」

僕の手からハンガーを取ると、彼女は壁にコートをかけた。
彼女のコートが、まるで僕の部屋に飾られたオブジェのように、壁から垂れ下がって居た。
数秒間、僕は其れを眺めて居た。

「話、聞いてる?」

「え?」

「寝てなさいよ?」

彼女は何をする為に、わざわざ僕の部屋を訪れたのだろう。
僕はベッドに潜り込み、小さく息を吐き出した。
すぐ隣に、リンカの横顔が見えた。

「どれどれ?」

僕の額に手を当てる。
彼女の手は小さく、細長く、冷たかった。
熱があるなと呟きながら、床に落ちたタオルを拾った。

「あ、床、濡れちゃってる」

「落としたから」

「拭きなさいよ」

「君が来たから、落としたんだ」

水の中を小さく揺れる、氷の音が聞こえる。
タオルを絞る。水が滴る。
液体的な音。

「ぬるくなっちゃってるなぁ」

独り言のように呟く。

「氷、貰ってきて良い?」

僕の返事を聞く前に、リンカは勝手に立ち上がり、部屋を出た。
初めて訪れた家とは思えない振る舞いだった。
何故だか、あまり気にならない。
止める気力も無い。

姉とリンカ。
変な組み合わせだ。
居間から小さな笑い声が聞こえる。

「お待たせ」

数分後、大量の氷を持って、彼女が現れた。
背後に、何故かマグカップを乗せたトレイを持った、姉の姿。

「何で?」

「何が?」

「何で姉さん、居るの」

「紅茶、飲むでしょ?」

当然のように床に腰を降ろすと、
改めて彼女は、ぬるいタオルを水に濡らす。
彼女の隣に、まるで当然のように、姉が腰を降ろした。

「はい、紅茶」

「僕、病人なんだぜ」

「病人だって、紅茶飲みますよね?」

僕にマグカップを手渡しながら、彼女は姉に問いかけた。
姉は声には出さずに、小さく笑った。
笑っているな、と思った。

なるほど、病人でも紅茶くらい飲むよな、と僕は思った。

彼女はモスキート。 第二三話

全てが枯れ落ちる白い季節になっても、羽音は鳴り止もうとしなかった。
何処にどのような道が在って、今を変化させたのか。
其れとも初めから、そうだったのか。

緩やかに上昇した熱は、同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。

(初雪は誰かと一緒に見たい?)

彼女の声。
今にも崩れてしまいそうな。
透き通った氷の板の上に、素足で乗るような。

軋んだ音。
熱を上昇させてはいけない。
彼女は凍えた水の底に沈んでしまうだろう。

動かしていけないのだ。
動かしては。

溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。




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第二三話 『自室(微熱)』




彼女と美術館に行った日から三日間。

僕は自室のベッドの中で暮らした。
僕の意識は朦朧として居たけれど、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じて居たのだ。

初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、
二日目にはTシャツを数回、着替えた記憶がある。
三日目ともなると高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。

「寝てる?」

部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。

僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。

姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。

再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。

姉。
姉が戻ってきたのは何年前だろうか。
とにかく姉は一度、この家を出て、数年前に戻ってきた。

姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、歓迎さえした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の最中に在った僕にとって、自由を感じながら、何かを喪失した気分にも近かった。
喪失した何かを、僕は取り戻したかった。

ところが戻ってきた姉は、僕が期待していた姉では無かった。

最初は小さな違和感だった。
再会した姉は、記憶の中の姉よりも痩せており、奇麗な服に身を包んで居た。
近付くと知らない匂いが漂い、其れが姉と僕の間に生まれた距離を、一定の間隔で保ち続けた。

甘い匂い。
記憶に無い匂い。
姉の好んだ香水の匂い。

当時、僕は大学受験を控え、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕の感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
時間が経てば、僕の感じた小さな違和感を、姉の変化を成長と受け入れる事も可能だったのだ。

ところが東京の大学に合格し、
僕と姉は中途半端な時期に、再び離れる事になった。
そのまま数年が過ぎてしまえば、やはり気付かずに終わらせておく事が出来たのかもしれない。

しかし僕は戻って来てしまった。

大学を休学し、また姉と一緒に暮らすようになった。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。

チチチ。

チチチ。

チチチ。

否、其の正体は、姉の変化では無かった。

小鳥のサエズリが聴こえる。
枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは何色のセキセイ・インコだったか。

姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。

小さな違和感の正体。



其れは、停止。



姉に感じた違和感は、変化では無い。
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。

僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたまま、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、音も無いままに脳裏に焼き付けられた。

僕が踏んだ小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。

虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。

姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。

大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。

僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉と弟の関係であれば目を見て話さない事くらい、
もしかしたら自然な事なのかもしれない。

ところが姉と僕の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
だから僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じて居た。

額の上のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。

チチチ。

チチチ。

チチチ。

感謝。
付随する罪悪感。
無言。

リンカ。
美術館の帰り道。
彼女は何と言ったっけ。

(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)

今すぐ僕の温度を下げて欲しい。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。

あの瞬間、恐らく僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、恐らく僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。

罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。

僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。

「一緒が良いよ、僕は」

窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。

「寝てる?」

姉の声が聞こえた。
僕は目を瞑り、息を潜めた。
喉を絞るように、小さな声で答えた。

「起きてる」

扉が開く。
姉の細い腕が見えた。
少し戸惑うように、部屋を覗き込む。

「何?」

「玄関に、お友達、来てるけど」

「誰?」

わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。

「女の子」

姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。
目次
★説明




★短編






★長編小説














★短編






★お笑い








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