
梅雨明けの雀。窓の外から鳴き声が聴こえる。
寝返る度にギシギシと煩い音を鳴らす、壊れかけたベッドの中で、僕は目覚めた。
家――何の変哲も無い、見慣れた自宅。雑誌と空缶が転がっている。
普段と違ったのは、ジーンズを履いたまま寝ていた事。枕元に変なマスクが脱ぎ捨てられていた事。
「……夢じゃなかったか」残念だ。シーンズのポケットを漁ると、丸められた一万円札が四枚。
数時間前、僕は本当にコンビニ強盗したんだな、水野と。
――「聞いたかよ! コンビニ強盗の話!」
大学に行くと、蒲田が興奮気味に騒いでいた。数時間前の出来事だから、まだ朝刊に載っている筈が無い。
彼の情報源は一体、何処から湧き出てくるのだろう。講義室を見渡すと、普段通りの席に水野は座っていた。
「おはよう」
「おはよ、一号、よく眠れた?」
「おかげさまで」
その呼び名は止めろ、と訴える前に、不覚にも睡眠に関する話題に反応してしまった。
厭味を言ったはずなのに、水野は楽しそうに瞳を大きくする。「へぇ、私なんか興奮して眠れなかった!」
ほとんど遊園地に行った後の子供みたいだ。「ねぇねぇ、何時間、寝た?」非常にどうでも良い質問だ。
「……二時間くらいかな」
「あっそ! それにしても鉄砲を出した瞬間の、あの店員の顔! あれ覚えてる!?」
「……おい! 止めろ!」抑えた声で、僕は叫んだ。講義室でコンビニ強盗の話をするなんて馬鹿げてる。
水野は口を押さえて小刻みに笑いながら「だって、あの顔……」と言った。まるで「あの観覧車、覚えてる?」と話すくらい気軽で、「だって、あの景色……」と笑うくらい根本的に能天気だ。確かに鉄砲を出した瞬間の店員の顔が、かなり素っ頓狂だった事は否めない。驚くでも無く、怒るでも無く、怖がるでも無く、素っ頓狂だった。
差し出された鉄砲を手に取って「ご一緒に温めますか?」と言い出しそうなくらい、素っ頓狂だった。
それくらい仕事に集中していない、やる気の無い中年フリーターだったのだ。
それが鉄砲と解るや否や、目を大きく見開いて、何かを叫ぶのかと思ったら「……ご一緒!」と言った。
彼は本当に「ご一緒に温めますか?」と言いそうになったのだ。僕達は予定通りに「金を出せ!」と叫んだが、会話としては成立していない。どうせなら隣の棚にあるカルビ弁当を差し出すくらいの余裕を見せたかったが、そんな余裕があるはずもなく、僕達は八万円を奪って逃走した。「……なぁんだ、たったの八万円かぁ」
水野は半分の四万円を僕に差し出すと溜息を吐き、その落胆の念を正直に表現した。深夜のコンビニで高額を狙うのは難しいのではなかろうか。「一旦、売上を精算する時間帯があるのよね」大学ノートを取り出す。
「調べておくわ、各コンビニの精算時間」
次の瞬間には、次の機会に向かって立ち直っていた。(……次の機会?)
「確かに、あの顔は面白かった。だけど今、その話するなよ」
「どうして?」
「学校だから。……捕まりたいのかよ、君は」
声を潜めて話していると、見慣れた影が近付いてくるのを感じた。
「何だよ、お前ら最近、本当に仲良いな」
「……別に仲は」
「それより聞いたかよ! 南通りのコンビニ! 強盗が現れたんだって!」
「へぇ……よく知ってるね」頬杖を付き、極めて冷静を装う。水野が余計な事を言わない事を祈る。
「それが男女二人組で、すげぇラブラブな強盗だったらしいよ」
「……ラブラブ?」
「それがさ、いや、ラブラブ、いやすげぇ」
蒲田が笑いながら、何とか話そうとして、やはり笑うので、まるで意味が解らない。僕達がラブラブ?
「何がラブラブなの?」
「それがさ、寄り添ってたらしいよ、常にピッタリと、コントみたいに……強盗する前にホテル行けよな」
誤解だ。寄り添ってた訳じゃない。水野のリクエストでBGMとしてBlack Sabbathを聴いていたのだ。マスクの隙間から何とかコードを入れて。だから寄り添ってた訳じゃなくて、コードが短いのだから仕方が無い。
「まぁ、確かにコントみたいだけど……」
「な! コントみたいだよな! 何でベタベタしてんのに、コンビニ強盗なんかしようと思ったんだろうな!」
「……それはベタベタしたいんじゃなくて、何か他に理由があったんじゃないかな」
「そもそも、その二人組、めちゃくちゃ変なマスクしてたらしいんだよ!」
「変なマスクじゃないッ!」水野が立ち上がる。失策った。マスクの悪口に反応したか。
「……何だよ、水野。お前、どんなマスクだったのか知ってるのかよ?」
蒲田は少しだけ怪訝な目をして、水野を見上げた。水野は一瞬、口篭ってから言う。「別に……女の勘よ」
何だ、そのフザケタ理由は。
勘だけで「見た事も無いマスクの変具合」を否定する女が、何処の世界に存在する。
明らかに「自分の宝物のマスクが馬鹿にされたから否定しました」という姿勢がバレバレでは無いか。
「なるほど、女の勘か」ああ、蒲田が馬鹿で良かった。
「まぁ、とにかく犯人は若い男女だったらしいんだけど、俺の勘だと、また次の犯行があるね……」
蒲田が突然、声を潜めて、わざとらしい演技口調で言う。(どうせ他の席でも言って回ってるのだろうが)
「……へぇ、それは男の勘?」水野が問う。
「否! 違う! これは俺の勘!」蒲田は叫ぶと、満足そうに笑った。
そんな蒲田を見ながら不敵に微笑んだ水野を見て、僕は心底、笑えなかった。

深夜の公園で、僕と水野は待ち合わせた。
梅雨が終わったといえ、夜は肌寒い。ブランコの表面は湿っている。大きな電灯が一本。静寂。
手で押して来た真新しい自転車のサドルの上に、僕は小さな黒いカバンを乗せた。まだ水野は来ていない。
乱雑に積み上げられた荷物の一番上に、鉄砲。
玩具の鉄砲? 否、本物の鉄砲。
撃って試した訳では無いが、モデルガンと本物の違いくらい、手に取れば素人なりに判別できる。
コルトM1917。ネットで調べると、それは1960年まで日本の警察に配備されていた鉄砲だという事が解った。
何故そんなモノが漫画喫茶の前に棄てられていたのかは解らない。単に誰かが落としただけかもしれない。
とにかく今、それは僕の手元にあり、交番に届ける訳でもなく、机の引き出しに隠し持っている訳でもなく、
それを使って今夜、僕は女の子とコンビニ強盗をしようとしている。「いやはや、ごめんね、待った?」
背後から声。
振り返ると、明らかな部屋着に身を包み、肩から大きなカバンを下げ、化粧を落とし、髪を振り乱し、
黒縁眼鏡をかけた水野が走ってくるのが見えた。「待った」僕は呟いたが、水野には聞こえていまい。
「ごめんね、ちょっと迷っちゃって」
迷う? 着る服に迷っていた訳ではないだろうし、自分が指定した公園だから、道に迷った訳でもないだろう。
「それにしても、本当に来てくれたんだね、どうもありがとう」
しまった。別に本当に来る必要は無かったのか。時すでに遅し。来てしまったモノは仕方がない。
「……何に迷ったの?」
「ん、これこれ」水野は肩から下げた大きなカバンに手を入れると、二枚の布キレを取り出した。
「……何それ」
「マスク! コンビニ強盗といえばマスクが必要でしょ!」
呼吸を整えるように息を吐きながら、水野は言った。「私、ルチャドールに憧れてたんだよね」……ルチャ?
「ルチャリブレ! メキシコのプロレス、知らないの? 男はルチャドール。女はルチャドーラ」
何を言っているのか解らないが、水野がメキシコのプロレスラーを尊敬している事は理解できた。
「男に憧れてたの?」
「違うよ、ルチャドールに憧れてたの、とにかく!」
水野は二枚の布キレを自分の両頬に当てると「どっち被りたい?」と言いながら僕を見た。まさか。
「え、そのプロレス用のマスクを被るって意味?」
「当然。他に何を被るっていうの?」
素材が何かは知らないが、麗しいほどの光沢を携えた二枚のマスクは、目立つ事この上ない。
ロマン輝くエステールも驚きの輝きを放っている。「興味本位で聞くけど、そういうマスク、何枚持ってるの?」
「そうね、200枚以上かな、まだまだ集め足りないけど」
なるほど。200枚以上の中から選りすぐられた2枚。それは時間もかかるはずだ。
「別に……どっちでも良いよ」
「じゃあ君はコッチね、コッチは私が被りたいから」
一枚を半ば強引に僕に手渡すと、水野は眼鏡を外し、ピンク色のマスクを被り始めた。
その格好のまま目的地まで歩く気ではあるまい。水野は本気でコンビニ強盗をする気があるのだろうか。
まるで緊張感が無い。もしかすると水野は"コンビニ強盗ごっこ"をしたいだけでは無いだろうか。
淡い期待が儚く崩れたのは、一秒後。
「じゃあ今から、今夜の作戦を発表するね、よく聞いて」
水野はカバンから大学ノートを取り出すと、それを開いて見せた。
各店舗の時間帯別の売上・客層・客数・店員の態度・店内カメラの配置・防犯対策の有無。逃走経路。
全ての情報が細かい文字と図で、一面に書き込まれている。水野は一枚のページをめくり、人差し指を置く。
「今は水曜の夜だから、南通りのコンビニが狙い目ね。やる気ない中年フリーターが店員だから」
時間帯別の客数は現在、0〜2人。カメラは設置されているが、あまりチェックをしていない。
入口の前は細い車道で、角を曲がると入り組んでいる。途中、広い路地に出る辺りに自転車を用意しておく。
「鉄砲は、持ってきた?」僕は無言で、真新しい自転車のサドルに乗せた小さな黒いカバンを指差す。
「じゃ、頼むわね、相棒」ピンク色のマスクの奥に潜んだ瞳で、水野は僕を見た。そんな目で見られても困る。
――「コンビニ強盗するなら、コード・ネームが必要ね」
自転車を押しながら目的地に向かう途中で、水野は呟いた。
専用のマスクは自分のポケットに入れ、化粧を落とした水野の素顔が、月明かりに照らされている。
「コード・ネーム?」今宵は満月で、絶好の犯罪日和なのかもしれない。深夜の路地は静かで、只、暗い。
暗くて深い夜の片隅から、何か楽しい事が始まらないかと願っている。明日が来れば、素晴らしい日々か?
「そ、コード・ネーム。そうね、男が主導権を握ってる方が、やっぱり悪の組織っぽくて良いわよね」
欧米のフェミニストが聞いたら怒り出しそうな事を、水野は屈託なく言った。
「私、2号で良いわ。ピンクのマスクだから、桃色2号」
それから僕のマスクに触れて告げる。
「君、青色1号ね」
瞬間、少し前に蒲田と交わした会話を思い出した。空缶の表面に記載された合成着色料。
C37H34N2Na2O9S3。ラットが大量の青色1号を摂取すると、発癌するらしい。確かに強そうかもしれない。
日々は退屈だった。僕は冬が好きだった。彼女は失われたままで、季節だけが車輪のように、回転していた。

何故、水野は知っている?
僕が鉄砲を持っている事は、誰も知らないはずだ。鉄砲を拾ったのは二週間前。自転車を買った日。
「私、見ちゃったんだよね」水野は頬杖を突いて僕を見上げると、ほとんど小悪魔のような笑顔を浮かべた。
「何を?」
「漫画喫茶の前で、鉄砲を拾ったトコ」
「誰が?」
君が――と言いかけて、水野は説明を始めた。
二週間前、僕は新しい自転車を買った。新しい町に住み始めて、徒歩だけなのは不便だった。
自転車に乗れば、何処にでも行けるような気がした。だから買った。実際には一度も乗っていない。
自転車を買った帰り道(その時、僕は自転車に乗らずに、手で押しながら歩いていた)、僕は鉄砲を拾った。
鉄砲だと思って拾った訳では無い。
漫画喫茶の入口の前に、まるで棄てた古雑誌のように、青色のビニールに包まれた物体があった。
自転車の前輪が、固い物体に当たったので、僕はそれを拾い上げた。ズシリと重いそれは、鉄砲だった。
「ぴかぴかの自転車を押して歩いてるから、声かけようかと思って」
水野は、僕を尾行していたのだ、と言った。そして見たのだ、僕が鉄砲を拾った、その瞬間を。
「拾って無いよ」
「拾ったよ、青色のビニールを解いたトコ、ちゃんと見たもん」
もしかしたら水野は、それを至近距離で見ていたのかもしれない。
僕は気付かなかったし、気付いたとしても、それが大学の同級生だとは思わなかったかもしれない。
「あれ、鉄砲だったよね。玩具じゃないよ、あれは」
「何で、そんなの判る?」
「女の勘」
まるで確証にならない。今、此処で「あれは玩具だった」と言えば、それで済む話だ。
ところが次に僕の口から飛び出した台詞は、僕の思惑とは裏腹に、水野の目を輝かせるに充分だった。
「何で、僕とコンビニ強盗なんか?」
「憧れない? 私、一回やってみたかったのよね、コンビニ強盗」
まるで初めてスノー・ボードに挑戦する乙女のように、胸の前で両手を組んで水野は言った。
「だから、何で、その相手が僕じゃなきゃ駄目なの?」
水野は両手を組んだまま、視点だけを動かして、一直線に僕を見た。
「鉄砲、持ってるから」
「じゃあ貸してやるよ、一人でやれよ」
「逃走手段が必要でしょ、自転車、持ってるじゃん」
「じゃあ鉄砲も、自転車も、両方貸してやるよ、一人でやれよ」
「それにね!」
僕の話も聞かずに、水野は僕の両手を鷲掴みする。
「何だよ」
「Black Sabbath、聴きたいじゃない」
「は?」
「コンビニ強盗の最中に、私達はBlack Sabbathを聴くの!」
Black Sabbath?コンビニ強盗の最中に?「何の為に?」
「演出! 雰囲気の演出よ!だって BGMが無いと、気分が盛り上がらないじゃない!」
「……じゃあ、iPodも貸してやるよ、だからコンビニ強盗は一人で、」水野が両手で僕の口を塞ぐ。
「私、機械苦手なの。ね、知ってるでしょ?」
梅雨は明け、きっと明日からは晴れだ。
紫陽花は枯れ、また次の種が、新しい芽を出そうとしている。
講義室の窓は、まだ濡れているが、雨音は聞こえない。きっと雨は止んでいる。
「君が居ないと駄目なのよ、よろしく頼むわね、相棒?」
全てを言い終えると、水野は満足そうな笑顔を見せた。
耳の奥では、相変わらずBlack Sabbathが流れていたけれど、よく聴こえなかった。
止んだはずの雨音だけが、僕の頭の中で、まだ延々と鳴り響いていた。地面に降り落ちる、雨。
その日の夜。
僕と水野は待ち合わせ、初めてのコンビニ強盗に出かけた。




