VOSTOK8 blog - Astronaut' Monologue TOP  >  2007年10月

彼女はモスキート。 第二二話

小さな絵が飾られた小さな部屋を出ると、正面玄関が見えた。

小さな部屋から正面玄関に至るまでの通路は通路と呼べず、
真白な壁は至極普通の蛍光灯で照らされており、
絵画は一枚も飾られて居なかった。

彼女と僕は美術館の内壁を器用に一周してきた形になる。
正面玄関に出ると、彼女は「戻ってきた」と言った。
しかし世界は先程とは間逆の状態だった。

右の絵は白。
恐らくは女。

左の絵は黒。
恐らくは男。

其の中央を、白と黒を纏った彼女が歩いて往く。

其れ等の全ては、前衛的な風景とは言えなかった。
僕は強烈な既視感を覚えながら、高熱と悪寒をぶら下げて歩いた。
呼吸に合わせて鼻水が垂れて来た。
もう風邪に間違いない。




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第二二話 『彼女と美術館(具象と色彩/参)』




「風邪ひいた」

「知ってるよ」

「寒気がする」

「知ってるよ」

彼女は「自分から言うのが遅すぎる」と言いながら僕を一瞥した。
僕は「喉も痛くなってきた気がする」と言った。

彼女は大きなウェスト・ポーチの中から小さな缶を取り出すと、
水色の飴玉を一つ取り出して、僕の口の中に入れた。

出口を通過しながら「今は何時かな?」と、彼女が言った。
壁に貼られたポスターには「具象と色彩(その創造)」と書かれて居た。

僕は美術館の前に立つと、口の中の飴を噛み砕いた。
水色の飴は嬌声のような音を残して、すぐに溶けた。

其れは唾液と共に喉を経由し、胃に到着し、
ほんの暫しの間、其処に留まる事となった。

「あ、何で噛んじゃうの!」

「噛みたかったから」

「子供ね、君は」

世界から隔離するように、外周には無数の木が植えられて居る。
建物は緩く曲線を描くように、全体的に丸みを帯びて居る。
入口には鉛で円を描いたような、螺旋の形の物体。

其れは妙な清潔感を漂わせた美術館だった。
交通の便は良く、流通の中心地を少し離れただけだが、
奇妙な程に人通りは少なく、音の少ない土地に、美術館は佇んで居た。

美術館の前を、一日に数本のバスが通過する。
西側に五分も歩けば、地下鉄の駅が存在する。
駐車場は無い。

市の中心部から少し離れた音の少ない土地に、
白色の壁に包まれた、清潔感の漂う美術館が佇んで居た。

空は雲に覆われ、灰色だった。
彼女は外気の温度に身を震わせて居たが、
僕には今が、熱いのか、寒いのか、よく解らなかった。

「あ……」

彼女が短く呟いた時、世界は何時何分だったか。
其れから、何秒間、彼女の声は世界に響いて居たか。
僕は朦朧と混濁を伴った意識の中で、彼女の横顔を眺めた。
彼女の顎と、首筋と、黒髪が、綺麗な曲線を描いて居るのが見えた。
背景に、白。

「雪……」

彼女が短く呟いた時、世界は何時何分だったか。
其れから、何秒間、彼女の声は世界に響いて居たか。
僕は朦朧と混濁を伴った意識の中で、彼女の黒髪を眺めた。
彼女の目と、鼻筋と、耳朶が、綺麗な曲線を描いて居るのが見えた。
背景に、白。

「初雪だよ、吉川くん」

僕の頬に何かが降り落ちた気がする。
彼女の台詞が真実ならば、恐らく其れは雪だった。
雪は僕の頬の上で簡単に溶けたので、僕は今、高熱だった。

噛み砕いた飴玉の甘みが、まだ残って居た。
其れから彼女の唇の温度も。
雪の温度も。

「初雪だよ、吉川くん、聞いてる?」

「冷たいな」

「ほぉ、其れは良かったね、吉川くん」

「冷たいな」

「冷たさを感じられるのは、良い事よ、吉川くん」

「何で?」

「私の手、温かいでしょ」

僕は「ははっ」と短く笑ったけれど、彼女の手を離しはしなかった。
急激な速度で赤色から白色に染まろうとする世界の中で、
彼女の手は、唯一の真実のような気がしたから。

「誰かと二人で初雪を見るのは初めてだ」

僕が言うと、彼女は笑った。
何時だって初雪は、決まって授業中に降ったような気がする。
授業中に降り始めた雪を、何時だって最初に発見したのは、先生だった。

先生は教科書を片手に持ちながら、不意に窓の外に目をやる。
其れから「おい、雪だぞ」なんて台詞を、妙に間延びした声で言うんだ。

其の声を合図にして、僕等は窓の外を見た。
本当だ、雪が降って居る。
初めての雪だ。

「来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?」

「来年も?」

「毎年ね、初雪は誰かと一緒に見たい?」

「今年の初雪が、今、降り始めたばかりだよ」

そう言うと、僕は笑った。

其れでも僕の手は、彼女の手を離そうともせずに。

降り続ける初雪を眺める事を、止めようともせずに。

彼女はモスキート。 第二一話

解体。

嗚呼、帰りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


小鳥を飼いたい。

黄色くて素敵な小鳥を一羽。

空高く飛んで見せてはくれないか。

僕の足下で静かに震えて死んでいく前に。


懐胎。

嗚呼、孵りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


彼処から、此方まで。

何度でも望んでるのは

歩道橋の中央での再会。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。




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第二一話 『彼女と美術館(具象と色彩/弐)』




「綺麗な絵ね」

小さな丸い場所を抜けると、大きな四角い場所に出た。
彼女は小さく息を吐き出すように、再び「綺麗な絵ね」と呟いた。
其れは確認作業のようでも在ったし、壊れた再生機材のようでも在った。

四角い場所の正面には、巨大な絵画が一枚。

天井から床まで一面を覆うような巨大なキャンバスの中央に、
真白な花が一輪、咲いて居る。
背景は黒。

否、背景は黒に見えるが、
繊細なグラデーションは、黒から青へと移行して居る。
青は本質的に白を含んで居るし、白を含みながら透明を含んで居る。

其れは水だ。

小さく揺れる波間だ。

小さく揺れる波間の中央に、花が咲いて居る。

僕は先程眺めた彫刻の、裸婦を思い出した。
裸婦は左手を床に垂らし、右手を胸の前に置き、其の掌を上に向けた。
其れは咲き始めた花の蕾のようにも見えたし、
穏やかに降り始めた雪を受け止める掌のようにも見えた。

四角い場所には、其の絵画の他に何も存在しておらず、
彼女は壊れた再生機材のように「綺麗な絵ね」と何度も呟いた。
まるで其の場面が消えないように、僕の脳裏に色濃く焼き付けるように。

全ては無音に近い。
殆ど無音に近い世界の中で、ほんの僅かな静寂が存在して居る。
四角い部屋を出て、細い通路を歩く瞬間、彼女は小さな声で、僕に言った。

「無音と静寂は違うわね」

「無音と静寂?」

「どちらも静かな事に変わりはないけれど」

細い通路を歩く行為は、歩道橋を歩く行為とよく似て居た。
其れは一直線に伸びて居て、隔てるモノは何も無く、
足下を通過する自動車も、市民も、雑音も、
全てを隔離して、僕は存在して居た。
ような気がする。

「誰も存在しない静けさが、無音よ」

「うん」

「誰かが存在する静けさが、静寂よ」

細い通路を、僕は彼女の背中を追うように歩いた。
彼女の隣に並んで歩きたい、と思った。
ところが細い通路では、彼女と並んで歩く事が出来なかった。

具象と色彩(その創造)。

彼女の裸体を想像する時、僕は彼女の肌を想像する。
白く澄んだ、青く血管の浮き出るような、彼女の肌を想像する。

其れから黒く流れる彼女の髪を想像する。
其れから赤く染まる彼女の目を想像する。

赤に白を溶け合わせたような乳房を想像する。
透明な汗と、唾液と、愛液を想像する。
甲高い彼女の声を想像する。

其れから白く濁る、僕の精子を想像する。

僕は手を伸ばす。

其れは届かない。


彼女は目の前に存在するが、酷く遠い存在にも見える。

僕は今にも壊れてしまいそうな気分になり、

彼女を呼ぶが、其れも届かない。

僕は名を知らない。

壊れる。


解体。

嗚呼、帰りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


小鳥を飼いたい。

黄色くて素敵な小鳥を一羽。

空高く飛んで見せてはくれないか。

僕の足下で静かに震えて死んでいく前に。


懐胎。

嗚呼、孵りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


彼処から、此方まで。

何度でも望んでるのは

歩道橋の中央での再会。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。




「何してんの?」

彼女の声が聞こえた。
彼女は黒と白のストライプに包まれた腕を伸ばした。
彼女の手が、僕の額に触れた。

彼女の手は、柔らかく、冷たかった。

嗚呼、地下鉄に乗った辺りから、僕は変だ。
オレンジ色の飴を舐めて、其れを噛み砕いた辺りから、僕は変だ。
と思った。

風邪でも引いたか。
意識が朦朧として居る気がする。
彼女が振り返り「何してんの?」と言った声。

言った声、が聞こえる。
だから僕は行かなければいけない。

「あ、やっぱり」

「ん?」

「熱があるよ、吉川くん」

「ん?」

「ずっと様子が変だと思ってたのよね」

彼女は僕の手を引くと「美術館を出よう」と言った。
其れから重低音のような足音を響かせて、館内を歩き始めた。
絵画の中で柔らかな枝に停まって居た小鳥が、羽ばたきそうな音だった。

世界は一瞬にして騒然となった。

雑音。感情。心拍。表情。

其れ等が、僕の手を引いて居る。

彼女と僕は、細い通路を歩いた。
何度か大きな部屋を通過したけれど、彼女は見向きもしなかった。
ひたすらに出口を求め、ひたすらに彼女は歩いた。

「どうして言わなかったの?」

「ん?」

「具合が悪かったんでしょ?」

館内に響くような、大きな声で彼女は言った。
僕を引く手は力強く、まるで地球の引力のようだった。
僕は「地球の引力のようだ」と言って笑った。

「何、言ってんの?」

「ん?」

「馬鹿じゃないの?」

「ん?」

「熱があるのに、我慢して」

僕は渇いた水車がカラカラと回転するように笑ったが、
彼女の手の力を弛める効果は無かった。
彼女は洪水のように怒った。

「君は子供?」

「ん?」

「君が何も言わないと、私は何も気付けないかもしれないのよ」

「僕が何も言わなくても、君は気付いたじゃないか」

「君は子供だよ、吉川くん、馬鹿だよ」

大きな部屋を通り過ぎた時に、小鳥の絵が在るのが見えたし、
空瓶だとか、果物だとか、空だとか、海だとかの絵も見えた。
だけれど本当に、其れ等は今、どうでも良い事だった。

「一緒が良かったんだよ」

僕は言った。
最後の細い通路を抜けると、小さな部屋に出た。
其れは本当に小さな部屋で、小さな絵が一枚、飾られて居た。

其の絵の中には一人の裸の少女が描かれて居て、
其の少女はリンカにそっくりだった。
其れから彫刻の裸婦にも。

彼女は泣いて居た。
理由はよく解らないけれど、彼女は泣いて居て、
小さな部屋の中央で僕を抱き締めると、僕に唇付けをした。

「そんなに一緒が良いのなら、私に風邪を伝染しなさいよ」

彼女は言った。
高熱の中でマグマが蠢いて居たけれど、何も気付かなかった。

其れは何時の日か地表に噴き出して、
全てを溶かしてしまうかもしれなかったけれど、
其れでも別に構わなかった。

彼女の唇は飴のようだった。

少なくとも、今、僕の世界の中で。

彼女だけが、色付き、

彼女だけが、存在し、

彼女だけが、現実的だった。

彼女はモスキート。 第二十話

市の中心部から少し離れた音の少ない土地に、
白色の壁に包まれた、清潔感の漂う美術館が佇んで居る。

美術館の前を、一日に数本のバスが通過する。
西側に五分も歩けば、地下鉄の駅が存在する。
駐車場は無い。

其れは妙な清潔感を漂わせた美術館だった。
交通の便は良く、流通の中心地を少し離れただけだが、
奇妙な程に人通りは少なく、音の少ない土地に、美術館は佇んで居た。

世界から隔離するように、外周には無数の木が植えられて居る。
建物は緩く曲線を描くように、全体的に丸みを帯びて居る。
入口には鉛で円を描いたような、螺旋の形の物体。

僕は美術館の前に立つと、口の中の飴を噛み砕いた。
オレンジ色の飴は悲鳴のような音を残して、すぐに溶けた。
其れは唾液と共に喉を経由し、胃に到着し、
ほんの暫しの間、其処に留まる事となった。




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第二十話 『彼女と美術館(具象と色彩/壱)』




入口を通過しながら「今は何展かな?」と、彼女が言った。
壁に貼られたポスターには「具象と色彩(その創造)」と書かれて居る。

美術館は中は巨大ではあったが、
決して壮麗では無く、其の一方で素朴では無かった。
中庸で在りながら特別な其れは、巨大で在りながら平凡で在り、
喩えるならば森の木の枝に張られた、可憐な蜘蛛の巣にもよく似て居た。

何故、突然、彼女は美術館に行きたいと言い出したのか。
今は何展か? と確認したくらいだから、目的の作品が在った訳では無く、
全ての事象は漠然としながら、抽象的な理由が僕を導いて居る気がした。

確かな事など何一つ存在しておらず、
其れでも僕は彼女の理由に従うように、僕の行動を決定して居る。
其処に違和感は無く、寧ろ混沌とした快楽さえ感じる。

目的地を知らぬ侭、目的地に進むような感覚は、
最終到達地を知らぬ侭、最終到達地に進むような行為にも近い。

知らぬ侭で進む行為が快楽に繋がる訳では無く、
知り得る中で導かれる感覚が、後天的な快楽に繋がるに過ぎない。

嗚呼、地下鉄に乗った辺りから、僕は変だ。
オレンジ色の飴を舐めて、其れを噛み砕いた辺りから、僕は変だ。
と思った。

風邪でも引いたか。
意識が朦朧として居る気がする。
彼女が振り返り「何してんの?」と言った声。

言った声、が聞こえる。
だから僕は行かなければいけない。

正面玄関は吹き抜けに成っており、二階が見える。
左右の壁には巨大な絵画が飾られており、其れは対になって居る。

右の絵は黒。
恐らくは男。

左の絵は白。
恐らくは女。

其の中央を、黒と白を纏った彼女が歩いて往く。

音が無い。
此処は酷く無音だ。
辛うじて静寂に近いのは、彼女の足音が聞こえるからだ。

左に曲がり細い通路に入ると、
其処には横に長い灰色の絵が飾られており、
其の一面に、様々な姿勢をした裸の男達が描かれて居る。
細い通路は薄暗く、横に長い絵画だけが、煙たい電球に照らされて居る。

男達の表情は一定で在り、笑っても居なければ、怒っても居ない。
悲しんでも居なければ、喜んでも居ない其れは、
無表情と呼んで差し支えない。

男達は全裸で在り、頭髪さえ生えて居ない。
男達の姿勢は様々だが、一様に腕を上方に伸ばして居る。
おおよそ助けを求める時に、人間は誰でも同じような姿勢をするだろう。

助けを求めては居るが、感情を表さない灰色の其れは、
細長い通路の端から端を覆うように、異様に横に長く伸びて、
延々と亡者の群れのような絵画を眺め続けなければいけない訳だが、
不思議と苦痛には感じない。

僕の前を歩く、彼女の背中が見えた。
不意に、彼女は一人の(絵画の中の)男の前で立ち止まると、
口元だけで微笑むような表情をしながら、人差し指で、男を指差した。

男は無数の亡者の群れのような男達の中で、一際高く手を伸ばして居る。
等しく表情は無いが、僅かに意思を感じられるような気がしたのは、
恐らく男一人だけが、薄く眉毛を描かれて居るからだろう。

灰色の絵画は奥に進むに連れて、次第に青みを帯びて往った。
其れから緑色へと移行し、続いて赤色へと変化した。
音の無いグラデーションの先は真紅(恐らく其れは辛苦でもある)であり、
絵画の一番先端は、醒めるような黄色だった。

絵画の一番先端は、醒めるような黄色で塗りたくられており、
他には何も描かれておらず、其処で絵画は終わった。

細い通路を抜けると照明が戻り、彼女と僕は小さな丸い場所に出た。
少々明るすぎる位に感じるのは、恐らくは薄暗い通路を抜けたせいだろう。

小さな丸い場所の壁には、無数の額が飾られて居る。
小さな丸い場所の中央に、裸婦の彫刻。
天井から数本の照明が宛てられて居る。

裸婦は足を曲げて座り込み、首を下に向けて俯いて居るが、
其れは淡い絶望感よりも、深い達成感を漂わせる表情だった。

裸婦は左手を床に垂らし、右手を胸の前に置き、其の掌を上に向けた。
其れは咲き始めた花の蕾のようにも見えたし、
穏やかに降り始めた雪を受け止める掌のようにも見えた。

「誰の作品かな?」と僕は言った。
彼女は特に何も言わずに、小さく笑った。

数方向から無数に伸びる照明のせいで、彼女の影が消えて居た。
僕は此の侭、彼女が美術品の一つになってしまうような感覚を覚えながら、
彼女の背中を、黒色のミニ・スカートから伸びる、白くて長い脚を、追った。

彼女はモスキート。 第十九話

彼女の涙は、きっと半透明のチェリー・ソーダみたいな色をしてる。

彼女が泣いたら、きっと目の中の赤色が溶け出して、
半透明のチェリー・ソーダみたいな彼女の涙が、
緩い曲線を描いて、白い肌を滑るだろう。

彼女の目は、体中の血液を溜め込んだように赤かった。
全てが黒と白に染められて往くであろう季節の中で、
彼女の目は、体中の血液を溜め込んだように赤かった。

彼女の白い肌から伸びた長い睫と大きな瞼は、
おおよそ陳腐な表現をするならば、漫画的とも言えた。

漫画的な彼女の目から流れる涙も、恐らくは漫画的で、
半透明のチェリー・ソーダみたいな色をした涙を流した後で、
彼女が呟くべき台詞も、等しく漫画的で在るべきだろうと思った。

流した涙は地表に落ち、大気と地下の両方に吸い込まれる。
気化し、同化し、凝固し、分裂し、乖離し、また気化する。
気化せず地下に辿り着いた最後の一滴を、僕は掌に乗せる。

地下に。

地下に。

地下に。




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第十九話 『彼女と地下鉄(中間)』




僕と彼女は、地下鉄に乗って居た。
彼女が「美術館に行きたい」と言い出したのだから、
僕と彼女が地下鉄に乗るのは、実に自然な行動だと言える。

漫画喫茶と違って、僕の町には美術館など存在せず、
美術館に行くならば、市の中心部に行かなければならなかった。
美術館どころか、市の中心部に行く事さえ、僕にとっては酷く久しかった。

地下鉄の車内は静かで、走行音さえ静かだ。
車輪に巨大なゴム・タイヤを使用する事によって、
走行音は限りなく静かで、車内の揺れさえ限りなく少ない。

「快適な居住空間」と書かれた車内広告が見える。
モデル・ハウスか何かの広告だろうか。
奇妙な清潔感の漂う広告だ。
其れは嘘に似てる。

彼女は吊り革に掴まりながら横目で僕を見ると、
小声で「何、舐めてんの?」と言った。
僕は小声で「飴」と言った。
彼女は小さく吹き出しながら「知ってるよ」と言った。

彼女が僕の掌の上に乗せた飴玉は全部で五粒で、
僕は其れ等を全て一気に、口の中に放り込む気にはなれず、
かと言って掌に乗せた飴玉を一粒だけ選んで、残りを返す気にもなれず。

一粒を口の中に放り込むと、思わずシーパンのポケットの中に、
残りの四粒を仕舞い込んでしまった。
最低だ。

「何、舐めてんの?」

「オレンジ」

今頃、四粒の剥き出しの飴玉が、
僕のシーパンのポケットの中で転がって居る。
恐らく其れ等を口に含む勇気は無いような気がするけれど、
等しく其れ等を投げ捨てる覚悟も、きっと僕には無いような気がした。

「オレンジ、私も好き」

「へぇ」

「チェリーの方が好き」

「へぇ」

地下鉄は音も無く、地下を走り抜ける。

無音にも近い静寂の中で、僕は全てを反芻する。
其れは記憶だとか、経験だとか、知識だとか、情報だとか、
探り合うような隠喩だとかの隙間から、何時だって僕に語りかけてくる。

世の中、間違えてる気がするけれど、其れが何なのか解らない。
世の中、間違えてないと主張する人が居たら、きっと僕は頷くと思う。

正解が何なのか解らない事を考え続けるよりも、
正解だと主張された答を受け入れた方が、よほど楽だから。
誰もリスクを背負わず、誰もリアルを背負わない世界は、随分と楽だ。

本屋でエロ本を万引きして、走って逃げる同級生を思い出した。
姉が可愛がって居た小鳥を、誤って踏んで死なせた事を思い出した。
中学三年の冬に、初めて好きな女の子と手を繋いだ日の事を思い出した。

其れ等は酷く些細な出来事なのかもしれなかったけれど、
目の前に表示される知らない誰かの裸体だとか、死体だとかに比べたら、
随分と(痛みを伴う程に)現実的だった。

其れから、彼女の存在も、まるで等しく、現実的だった。

きっと僕は是から何処かでチェリーを見かける度に、
彼女を思い出すようになるのではないか、と思った。
彼女は今、僕の隣に居るのだけれど。

「何でオレンジにしたの?」

「何が?」

「何でオレンジにしたの?」

「他のは全部、ポケットの中に入れたから」

僕が言うと、彼女は少しだけ楽しそうに笑った。
彼女が「何となく?」と訊くので、僕は「何となく」と返した。
地下鉄の乗客は疎らなのに、不思議なくらい座席は空いて居なかった。

「君が自分で決めた事以上に、君にとって本当の事って在るの?」

おおよそ漫画的な彼女の存在は、痛みを伴う程に現実的だった。
彼女が泣いたら、きっと目の中の赤色が溶け出して、
半透明のチェリー・ソーダみたいな彼女の涙が、
緩い曲線を描いて、白い肌を滑るだろう。

そんな場面は見たくないな、と思った。
僕と彼女の今後の関係に、何の根拠も無いのだけれど。
何もかもが曖昧な侭だけれど、そんな場面は見たくないな、と思った。
そんな季節ならば、来なければ良いのに、と思った。

僕は逃げたんだ。
僕は逃げ出して、今、此処に居るだけなんだ。

僕は何から逃げた?

小学生時代のサッカーか?

其れとも休学した東京の大学か?

其れとも僕が踏み殺した姉の小鳥からか?

其れは僕が自分で決めた事と言えるのだろうか。
其れは本当の事なのだろうか。

地下鉄は緩やかに速度を落としながら、
やがて停止すると、憂鬱な溜息を吐き出しながら、扉を開いた。

僕等が地下に居た間に、
もしかしたら一瞬にして秋が終わって、
もしかしたら一瞬にして冬が始まって居るかもしれなかった。

僕の横を黒と白のストライプが通り過ぎて、
首だけで振り返ると「降りるんでしょ?」と言った。
僕は彼女の背中を追うように歩き始めると、地下鉄を降りた。

背後から扉の閉鎖音が聞こえた。
目次
★説明




★短編






★長編小説














★短編






★お笑い








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