
「鈴木先生」の第四巻を読む。
本編とは関係ないが、帯のコメントが麻生久美子だった事に、妙に感心する。
「双葉社の人、解ってるな、解ってるよ」などと、ページをめくる前から、妙に一人で納得。
この麻生久美子のコメントが秀逸で、曰く、
「"鈴木先生"を知ってる人は、かなりセンスいいなぁと思ってしまう」
……なんというツボを心得たコメントであろうか。
そのコメントを読む時、我々は誰もが「小川蘇美に恋する5人の中の一人」と変わらない。
「それは俺の事だ!」と挙手したい気持ちを抑え、ニヤリとほくそ笑む。
麻生久美子に漂っている陰鬱なエロスだとか、それを覆う清楚な空気感だとかを知り、
そんな彼女に見合う人間こそ自分だと、彼女の魅力に気付いているの人間こそ自分なのだと、
我々は馬鹿げた妄想の中で、独善的な優越感に浸るのだ。
如何に、この「帯のコメントに麻生久美子」のチョイスが秀逸か、という事が伝わるだろう。
だが我々は、小川蘇美への想いを見透かされたように、
居酒屋で関先生に一刀両断されている鈴木先生の姿、というものも知っていて、フと我に返るのだ。
まさしく彼女の魅力に気付いているのは自分だけに違いない、という優越感に浸っているのは、
何も自分だけではなく、むしろ実はそういう人間の方が多い、という事実に気付くのだ。
そして「鈴木先生」という作品そのものが、そうした ambivalent な魅力に満ち溢れた作品なのである。
それでも我々は、我々にとっての小川蘇美を求めているし、小川蘇美の魅力に気付ける人間に興味を抱く。
その意図的とも思えるほど複雑に絡み合った過剰な ambivalent に引きこまれ、我々はページをめくるのだ。
その衝動が、この作品には存在するのである。