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鉛色のサンデー 最終話(後編)

大きく、緩やかに、湾曲する最終コーナー。

走り高跳びをする、あの子の曲線ようにも見える。

空中に架けられた、七色の放物線のようにも見える。


大きく腕を振り、前へ。

更に一歩前へ。

更に一歩前へ。

残りの直線を走れば、ゴールラインが見える。


腕を振り、脚を上げ、息を吐き、衝動は突き抜ける。

回転を続ける弾丸は、何処に向かって飛ぶのか。

東京湾を、静かに、若い男女が歩いて居る。







最終話 『弾丸の行方(後編)』




空缶が転がって居た。
塗装が剥げて、鉛色に錆びた、古い空缶だった。
空缶は泥だらけの水溜りの上に、只、宛も無く浮んで居る。

男は空缶を拾い上げると、それを道端の屑篭に放り投げた。
空缶は、大きく緩やかな放物線を描いて、空中を舞った。

防波堤を穏やかに打ち返す、波の音が聴こえる。
男は黒色のパーカーのフードを頭に被り、女の手を引いた。
女は白色のニット帽を目深に被り、男の手に引かれるままに歩いた。
どちらも顔は、よく見えない。

巨大な船が、遠くを泳いで居る。
波は静かに揺れ、真上からゆっくりと落ちる太陽が、それを照らして居る。

風は穏やかだった。
時折、女の黒髪を撫でるように揺らしたが、それは優しい風だった。
五本の指で薄く触れた絹のような秋の雲が、青空に張り付いて居る。
重なるように、解れた糸のような、飛行機雲。

飛行機雲は一直線に伸びて、先端に太陽が被さって居る。
飛行機雲は太陽の尻尾のようにも見える。

「あの飛行機雲はさ」

男が口を開いた。

「誰かが太陽に向かって、飛んで行ったみたいだよね」

女は空を見上げた。

女は特に感想を言わずに、静かに空を見上げて居た。
男は特に感想を求めずに、静かに空を見上げて居た。

男と女は静かに立ち尽くすと、空を眺めた。
遠く、本当に遠くを、悠然と飛行機が飛んで居る。
あの飛行機雲を残した、飛行機では無いだろうが。

飛行機はゆっくりと飛び、沈み行く太陽の、すぐ真下を通った。

「あの飛行機は、太陽を運んでるように見えるよ」

男が呟くと、女は頷いた。

「巨大な飛行機は、下から全てを持ち上げるんだ」

男は女の手を引き、再び歩き始めた。

巨大な船が、海上を鯨のように泳いで居る。
もしかしたら素早く泳いで居るのかもしれなかったが、
遠くから眺める者には、それはゆっくり泳いで居るように見える。
地球が太陽の周囲を旋回して居るように。

女は酷くゆっくりと歩いた。
外を歩くのは久し振りだったから、体は以前より衰えて居た。
細かった足は、更に細くなったような気がするし、
細かった腕は、更に細くなったような気がするが、
少なくとも男にとって、それは決して悲しい事では無かった。

今ならば、女と同じ速度で歩けるような気がしたからだ。

男は女の手を引いて、歩いた。
時には止まって休み、時には座って語らう事も出来た。

気が付くと巨大な船は、小さなゴマ粒のようになって居た。
周囲には人も無く、波の音と、歩く音だけが聴こえた。
男はポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。

煙草を深く吸い込んで、吐き出した煙を眺める。

細く糸を引く煙の先は、何処かに繋がって居るような気がする。
宝探しの地図を眺めるように、何度でも煙を吐き出した。
北極点を越え、赤道を越え、マクマード湾を経て。

遠くの地面に、何かが刺さって居るのが見える。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

不意に、穏やかな風が吹いた。
煙草の煙は風に流され、長く伸び、消えて往く。

極寒のマクマード湾を経て南極点に出発したスコット隊が、
目指した場所で目にしたモノは、一体何だった。

風に揺れるソレは、絶望だったはずだ。
スコット隊は意気消沈の中で、南極点を後にした。
その帰路の途中で、彼等は遭難し、凍死し、そして全滅した。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

ノルウェーの国旗を眺めて、ロバート・スコットは何を思ったか。

(I do not regret this journey which shows that
 englishman can endure hardships.
 Help one another and meet death
 with as great fortitude as ever in the past.)

一体、何が悪かった?

最後まで悩み苦しんだのだろうか。
最後まで嘆き悲しんだのだろうか。

男と女は歩いた。
男と女は、ゆっくりと、ソレに向かって歩いた。
焦る訳でも無く、呆れる訳でも無く、ソレに向かって歩いた。

次第に鮮明になるソレを見て、思わず男は笑った。
男は女の手を引いて、そのまま歩き続ける。
足取りは軽くも無く、重くも無い。




風の中に、旗が揺れて居る。




それは旗だった。
真白な、決して大きく無い旗だった。
真白な、決して大きく無い旗が、穏やかな風に揺れて居る。

男と女は、ゆっくりと歩き、その旗の元に辿り着いた。
男と女は、その旗の元に辿り着くと、地面に突き刺さった棒に触れた。

何の変哲も無い、単なる木の棒だった。
誰かが悪戯で地面に突き刺したのかもしれなかった。

真白な旗が、只、風に揺れて居る。
純白では無い。
風に揺れる度に、文字が見える。
下手糞な文字が、油性マジックで書かれて居る。

(世界の果て)

小学生が書いたような下手糞な文字。
此処に来た子供が、遊びにでも使ったのだろうか。
此処で遊んで放置したまま、帰ってしまったのかもしれない。

男は笑った。
男は木の棒を力強く握ると、それを地面から引き抜いた。
女は男の手を力強く掴むと、それを地面から引き抜いた。
雨上がりの地面は柔らかく、旗は泥を滴らせながら、簡単に抜けた。

引き抜いた旗を地面に置くと、実に呆気なく、
世界の果ては、単なる東京湾に戻った。

防波堤を穏やかに打ち返す、波の音が聴こえる。
男は煙草を深く吸い込むと、その指を静かに離した。
地面に落ちた煙草を、靴の裏で踏むと、短く笑った。

東京湾が見える。
穏やかな風に揺れる、東京湾が見える。
女は東京湾を眺めながら、男の手を強く掴んだ。

「東京湾は、何色?」

女が小さく、言葉を発した。
男は東京湾を眺めたまま、動かなかった。

「東京湾は、水色だよ」

男が小さく、言葉を発した。
女は東京湾を眺めたまま、動かなかった。

「何処まで行っても、水色のままだよ」

女は不思議そうに男の横顔を眺めながら、小さく呟く。

「何処まで行っても?」

「何処まで行っても、水色のままだよ」

男は東京湾を眺めたまま、女の手を、強く握り締めた。




太陽が、手を伸ばして居る。




水は色を変えるだろう。

澄んでも、汚れても、水は水のままで、色を変えるだろう。


昼になれば青色に。

夜になれば黒色に。

雨が降れば灰色に。

雪が降れば白色に。

夕陽を浴びて、オレンジ色に。


汚されて泥濘になる事もあれば、

洗われて透明になる事もあるだろう。


それでも、水は、水で在る限り、水色だ。

水の色だ。




「汚れても、尚、水色」




女は、静かに微笑んだ。
東京湾を眺めながら、女は静かに微笑んだ。

男は手を離すと、背中のリュックを肩から外した。
リュックのジッパーを開けて、右手を入れる。
ゆっくりと、重そうに何かを取り出す。

男は宝物を見せるように、ソレを掌に乗せた。
女は何も言わずに、取り出されたソレを見た。

「引き出しの中の秘密」

それは鉄砲だった。
太陽を浴びて鉛色に輝く、鉄砲だった。

「引くほど酷いエロ本だろ?」

悪戯のように言うと、男は一人で笑った。
女は表情を変えずに、男の目を、静かに見詰めて居る。
男は手の中の鉄砲を、何度か角度を変えながら、何も言わず眺め続けた。

「本当に、何度見ても、引くほど酷いエロ本だ」

男は東京湾に向き直すと、小さく息を吸った。

沈み往く太陽が見えた。
波は揺れて居る。
音は止んで居る。

男は静かに両手を前に出して構えると、撃鉄を引き起こした。

其処には何も無い。
何も無いが、空と海は在った。
男は小さく息を吐き出すと、引き金を引いた。








ドォォォォォォォォン。








空と海に、銃声が響いた。
反響するように、銃声は何処までも伸びた。

男は何も言わずに、女の手に鉄砲を渡した。
女は少しだけ困惑した表情をしながら、ソレを受け取る。

音は無い。
声は無い。

衝動だけが、世界に照準を合わせる。

何の為に。
誰の為に。

男は女の指に手を添え、先程と同じように、撃鉄を引き起こす。
女は両手を前に伸ばし、力強く、何も無い世界に向けて構える。


叫べ。

此処に存在するのだと叫べ。

泣け。

此処に存在するのだと泣け。

笑え。

此処に存在するのだと笑え。


撃ち出せ。

止め処なく続く憂鬱を。

止め処なく続く空虚を。

止め処なく続く無力を。

止め処なく続く焦燥を。

止め処なく続く退屈を。

止め処なく続く悔恨を。


どうしようも無かった感覚を。

どうしようも無かった現実を。


弾丸を、糞ったれな現在に向けて、精一杯に。


「撃て」
































ドォォォォォォォォン。
































銃声が、高く、低く、世界にコダマして居る。








緩やかな風に乗る、硝煙を眺めながら、男は言った。

「弾丸は溜め込むなよ」

硝煙は風に乗ると、空中で、柔らかな曲線を描いた。

「暴発する時には、手遅れなんだ」

曲線は高く舞い上がると、空気に混ざりながら散った。

「たまには撃ち出すのも、気持ち良いモンさ」

そこまで言うと、男は向き直る。
それから言おうか言うまいか迷うような仕草を見せて、
やはり言わない事に決めると、代わりに女の頭に手を伸ばした。

男は、女の白色のニット帽を脱がせると、女の耳に触れた。
ブルーチタンの温度が、静かに、伝わった。

女は何も言わず、男の手に、自分の手を重ねた。
貝殻に耳を当てるように、穏やかに目を閉じた。

女は、男の黒色のフードに手を伸ばすと、男の耳に触れた。
ブルーチタンの温度が、静かに、伝わった。


太陽が、手を伸ばして居る。


水は何度でも繰り返すだろう。
色を変えながら。
形を変えながら。

水は何度でも繰り返すだろう。
氷に変化しながら。
煙に変化しながら。

空から海まで。
その中間まで。

男は微笑みながら、ジーパンのポケットに、手を入れた。
ポケットの中に、何か入って居る。

男はそれを取り出すと、思わず笑った。
それはポケットの中で小さく丸まった、紙切れだった。
消えかけた店名と、地図と、割引金額が、まだ微かに読み取れる。
思わず笑った。

男はそれを手の中で転がすと、東京湾に向かって投げた。
それは小さな音を立て水面に浮び、静かに沈んで往った。
音も無く、深く、深く、沈んで往った。

男と女は、鉄砲を、先程の真白な旗の上に置いた。
世界の果ての上に、鉛色の鉄砲を置くと、再び歩き始めた。


太陽に、手を伸ばす。

何度も、手を伸ばす。

届くとも、届かずとも、何度でも。

太陽に、手を伸ばしたいから、手を伸ばす。


手を繋ぐ。

共に歩く。

女が男の横顔を眺めて居る。


「何?」

男が訊ねる。

「何?」

女が訊ねる。

男は笑いながら「何が?」と問いかける。


「何を投げたの?」

「さっきの?」

「うん」


男は一人遊びを分け合うように、楽しげに言った。


「毬藻の種を撒いたのさ」

「毬藻?」

「毬藻は綺麗な水の中じゃなきゃ、育たないんだよ」

「毬藻?」

「だから東京湾で毬藻を育てたら、きっと名誉都民になれるよ」


女が笑った。
女が楽しそうに笑った。
女が楽しそうに笑ったので、男は笑った。


「毬藻に種って在るの?」

「知らないけど」

「何それ」


変わらないようで、変わって往く、全てのモノ達へ。

僕等は何も変わらない。

何も変わらないようで、何かが変わりながら、此処まで来た。


土曜日が、やがて日曜日になるように。

日曜日が、やがて月曜日になるように。


其処に居た僕等は、何も変わらないはずだった。

曜日の名前が、毎日、変わっただけだったんだ。


だけれど、今日、僕等は此処に居る。

何も変わらないようで、何かが変わりながら。


空は未だ青く、海も未だ青かった。

だけれど、今。
だけれど、今。

少なくとも、今は太陽の光を浴びて、どちらも銀色に輝いて居る。

静かに微笑みながら、女は言った。


「素敵な日曜日を、ありがとう」


止め処なく流れる日常の中で。

止め処なく流れる生命の中で。


少なくとも、今。


太陽の光を浴びて。

日曜日は銀色に、輝いて居る。

世界は本日も、渦を巻いて、回転して居る。



■鉛色のサンデー 完
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