
国は緩やかに堕落していった。
民衆は刺激を無くし、次第に仕事を放棄するようになった。
まず始めに地方の小さな靴屋が店じまいをし、一週間後に隣町の床屋が店じまいをした。
外を出歩く者が減ったから、身なりに気を使う者も減ったのである。
それから半年後には多くの町から商店街が無くなり、
電灯は夜でも消えたままになり、一年後には信号機も動かなくなった。
それから数ヵ月後には銀行が経営破綻し、私の国は、ほとんどが動かなくなった。
「カレーライス禁止法を廃止されては如何ですか?」
従者の井上が進言したが、時は既に遅い事を、私はよく解っていた。
民衆がカレーライスから得ていた刺激が、それほどまでに強烈だった事実を知るに付け、
私はより深くカレーライスに対する羨望を覚え、より深く民衆に対する嫉妬を覚えたのである。
「カレーライスが食べられないなら、ケーキを食べれば良いではないか」
私は宮殿の回廊を歩きながら、空を眺めて呟いた。
それは実に青く澄んだ空だった。
私は「カレーライスに、この青を表現する事は可能であろうか?」と考えた。
だが恐らくカレーライスには造作も無い事なのであろう。
カレーライスは自由なのだ。
国が動かなくなろうと、私の生活に変化はなかった。
毎日、同じ時間に起床し、同じ時間に入浴し、同じ時間に睡眠する。
時に女中を抱く夜もあるが、ほとんど私は動かない。
それから同じ食器で食事をする。
嗚呼、喩え満天の星空の全てが私のモノだとしても、私は満たされないだろう。
全てが私の両手では抱えきれぬほど満たされていたとしても、私は一億光年分、虚しいだろう。
本当に欲しいモノだけが決して手に入らないと悟った時、それほど虚しい事が、他にあるだろうか。
私は生まれを呪い、血を呪い、カレーライスを愛する民衆を恨んだ。
私に愛する事が叶わないのならば、他の誰も愛してはならない。
私だけが愛するカレーライスで無いならば、他の誰に愛されてもならない。
全てが緩慢に滅び行くならば、喜んで共に滅びようではないか。
「陛下、暴動が起きようとしています」
従者の井上は、この一年で随分と痩せたように見える。
痩せても尚、私の元から離れようとしないのは、受け継がれた立場によるものか。
生まれを憎み、血を憎んだりはしないのだろうか。
「制圧せよ、朕は国家である」
私の一言で戦車隊は出動し、町は燃えた。
銃声が三日三晩、鳴り止まず、四日目に何も聞こえなくなった。
「陛下、私達は一体、何処へ向かっているのでしょうか」
井上は窓の外を眺め、小さく呟いた。
大きな窓の右端に満月が浮かんでおり、井上の髪を照らしていた。
それから月光は、井上の細い肩を撫でるように滑り落ち、真紅の絨毯に染み込んでいった。
「井上、脱げ。
朕は貴様を抱きたくなった」
振り返った井上は何も言わず、喉元の牡丹を一つ外して、私を見た。
衣服は月光のように滑り落ち、白い肩筋が見えた。
それから小さく一礼して、目を閉じた。
井上がいなくなった窓辺から、細く伸びる煙が見えた。
満月に向かって、煙が伸びている。
決して届く事はない。
十月革命が勃発したのは、その四日後である。
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