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東京コミケ紀行 其の七



■別離
カラオケを終えて外に出ると、雨は幾分、止んでいた。
駅に向かうまでの短い時間、僕は出来るだけ多くの人達と会話するように心がけた。
歩きながら、一人ずつに声をかけていく。贅沢な時間だ。また次の機会に、なんて今は考えてはいない。
今、出来る事をしよう。ほんの少しの時間でも、出来るだけ多くの会話をしよう、皆に声をかけよう、と思った。

皆、別れを惜しんでいる。渋谷駅に到着し、僕等は「まだ遊ぶ組」と「もう帰る組」に別れる事になった。
僕とちゅい太君は、翌日の飛行機で帰るのだから、この後、まったく時間が無い訳では無かった。
しかし本当に申し訳ないけれど、僕等は「もう帰る組」になった。
僕の気力と体力は、実はカラオケの中盤辺りから、もうほとんど限界だったのだ。
前日から、僕は一睡もしてなかったのだ。緊張感だけで、ここまで背筋を伸ばしたけれど、結構限界だった。

「オレンジさん、最後に締めを!」
そう言われて、僕は一瞬だけ迷った。最後に言う事なんて考えて無かったし、今更、長々と語るのも違う。
この時、我々は、妙な一体感に満ち溢れていた。直接、見られる距離で、触れられる距離で、出逢ったのだ。
僕は一人一人と握手して、頭を下げた。感謝で一杯だった。感動で一杯だった。充実感で一杯だったのだ。
「じゃ、一本締めで」と僕は言った。恥ずかしい事は百も承知である。しかし、あまり言葉は要らないと思った。
シンプルに「よ~お、パンッ!」だけで終わらせるのが、一番綺麗だと思ったのだ。

若者集う渋谷の町で、我々は輪になった。この時点で結構、恥ずかしい。
それではお手を拝借、と言った感じに、我々は両手を広げ、渋谷のド真ん中で、大きく一回、手を叩いた。
「それでは、M線上のアリア、これからも全員で頑張りましょう!よ~お、パンッ!」
は、恥ずかしい!恥ずかしいけど全員やってる!何このオッサンくさい青春感!何だこれ!変な感じ!
この夜、渋谷の町で、間違いなく我々は一体となった。(恥ずかしい事を共有した連帯感と共に)

そして我々は、各々別れ始めた。僕と、ちゅい太君と、サクさんが、一緒に駅の構内に入っていった。
また短い時間、サクさんと話す事が出来た。サクさんと会えて、本当に良かったと、僕は思っている。
何せ8年前から会ってみたかったのだ。もっともっと沢山、話したかった。夜通し、酒でも飲みながら。
きっと話す事は沢山ある。まだまだ沢山ある。小説についてだとか、改行についてだとか、きっと色々。
天空の城ラピュタについてだとか、ドラえもんについてだとか、きっと本当に色々。話し足りなかった。

サクさんが後日談で「オレンジさんは一度もサングランスを外さなかった」と言っているけれど、
それはサングラスの下の疲れた目を見られたくなかったからです。あと、カッコ付けたかったからです。
サングラスをかけるとカッコイイと思ってる、昭和の人間なんです。あの時、本当に疲れ切っていたんです。
最後に固く握手をして、僕等は別れた。アリアが、少しでも彼が飛躍する切っ掛けになると良いと思っている。
僕が蜜の靄や、野良犬デュードや、MartSや、色々を経て、SOYUZに辿り着いたように。彼には手が必要だ。
飛べるのだと確信できる、誰かの手が必要なんだ。味方が必要なんだ。もっと自分から手を伸ばせば良い。

後から、一緒にご飯でも食べたかったな、と少し思った。

--------
■船橋、再び
駅のホームに立ち、肩から荷物を下した瞬間、再びちゅい太君と二人になったんだな、と実感した。
僕は大きく息を吐き出し目を閉じた。ちゅい太君が「しっかり"オレンジさん"をやり切ったね」と言って笑った。
ちゅい太君がいてくれて良かった、と思った。じゃなければ皆と別れた後の寂しさに、耐えられたか解らない。
この日、僕は「しっかり"オレンジさん"である事」を、一番の目標にしていた。ちゅい太君にも言ってあった。

「オレンジさん」というのは、少なくとも僕にとって、完璧な人物だった。
人生の酸いも甘いも知り、他人の痛みを知り、優しく、強く、しなやかで、安心を与えられる人。
それが僕にとって理想の「オレンジさん」だった。僕自身ではない。それは、あくまでも「オレンジさん」の話だ。
そんな「オレンジさん像」が何時頃、僕の中に芽生えたのかは、はっきりと明確な時期がある。

【ボクラが残したコトバ】という物語を書いた頃だ。
今、読み返すと稚拙な物語は、しかし、一部の人にとっては、とても大切にされた作品だった。
決して誰でも知ってるような有名な作品になれた訳じゃない。だけれど、僕にとっても大きな作品となり、
多くの人達の後押しのおかげで出版もした。そしてまた、その作品が、僕自身を縛り付ける事にもなった。

当時、僕の元には本当に沢山の、色々な種類のメールが届いた。その大半が、人生の悩みだった。
生、死、病気、自殺、借金、それでも生き続ける希望とは?そんなメールが沢山届いた。
今から考えてみれば、当時若干二十歳そこそこの若造に、その苦悩の意味が解っていたとは思えない。
それでも僕は、その沢山の悩みに真摯に応えようとした。皆の理想のオレンジさんを演じようとした。
神様のように振る舞おうとした。世の中の全てを知っている顔をしようとした。しかし、無理に決まっていた。

僕は「オレンジ」という名前から、何度も逃げた。結局、僕は人を傷付けるし、完全どころか不完全な人間だ。
それで何度も逃げた。何度も名前を棄てた。だけれど戻ってくるのは、何時だって、この名前の元だった。
きっと「オレンジ」は、僕の理想なのだ。コミケ会場に向かう朝、僕はちゅい太君に言ったのだ。
「今日の僕は"オレンジさん"だから」と。

ちゅい太君が「しっかり"オレンジさん"をやり切ったね」と言って笑った。僕も笑った。 ホームに電車が来た。
僕等は並んで、その電車に乗り込んだ。行先は、再び千葉・船橋。同じ健康ランドに泊まりたかったのだ。
何でわざわざ千葉まで?と思うかもしれないが、僕は前日、千葉を気に入っていた。好きになれば全肯定。
ゆっくり風呂に浸かって、ぐっすり休みたかった。

やがて船橋に到着すると、僕等はまず、駅前で腹ごしらえする事にした。
一日の終わり、疲れ果てた体を引きずるように、夜の駅前を歩く。一件、明るい電光看板。
「松屋」の文字が見えた。牛丼の松屋。この時、僕が何を考えていたか、きっと解る人には解るだろう。

【ボクラが残したコトバ】の一場面を思い出していた。まるで自分が主人公の男になった気分だった。
一日、ギターを担いで町を歩き回って、疲れ果てた体を引きずって、男が最後に辿り着くのは、夜の牛丼屋。
狙って行動した訳では無い。偶然だ。松屋を選んだのは、ちゅい太君だ。その偶然の一致が、可笑しかった。

松屋に到着して、僕はカレーライスを食べた。松屋で、またカレーライスかい!と言うなかれ。
カレーが美味ければ世界は平和なのだ。この日、食べ物を口にしたのは、この時が初めてだった。
朝「今日は何も食べない」と決めてから、本当に今まで、僕は何も食べて無かったのだ。
傍にいた人は解るだろうが、カラオケ屋でも何も食べなかったし、皆のお土産も、その場では食べなかった。

当然、めちゃくちゃ食べたかったのだ。ずっと、お腹は空いていたのだ。
只、緊張でお腹を壊しやすい僕は、理想の「オレンジさん」は、大事な場面でお腹なんか壊さない、と思って、
一日が終わり、皆と別れるまでは、元気でいたかったし、食事を摂るのは一切我慢しようと決めていたのだ。
ようやくの松屋。大好きなカレー。安っぽいカレーが、めちゃくちゃ美味かった。

考えるに、今回の旅は、僕にとっては、この【M線上のアリア】という現在に辿り着く為の、
それまでの過去を振り返り、作品を振り返り、自分自身を受け入れる旅だったような気がしている。
初めて飛んだ後で、やっと解る事もある。飛ばずに気付く事もあれば、飛んで知る事もある。此処が「今」だ。
カレーライスが美味かったのだ。僕は不完全で未完成な人間のまま、結局は「オレンジ」が好きだったのだ。
理想の「オレンジ」になりたいと思う。不完全なまま、僕は完全に憧れている。それは絶対的な、安心だ。

僕の中のオレンジよ、理想を語ってくれ。叶いもしない夢を、堂々と叫んでくれ。
誰もが信じない、存在しないと思っている何かを、それは存在するのだと、嘯いてくれ。
馬鹿げた綺麗事を、臆面も無く吼えて、嘘を吐き、人を騙し、恍惚とした世界を生み出してくれ。
その全てを、僕は現実に変えたい。嘘だけれど、本当になるのだ、と笑うから。だから僕の中の、オレンジよ。
理想を語れ。夢を叫べ。人が鼻で笑う綺麗事を、恥ずかしげも無く吼えてくれ。

お前は、形の無い物語を、一冊の本に変えたんだ。

船橋の健康ランドに到着した。思わず「ただいま」と、僕は言った。
風呂に浸かり、今夜は空いていた仮眠スペースに寝転がり、僕等は朝まで眠った。
隣で知らない婆さんが大きなビキをかいていたけれど、安心して、眠った。
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[ 2008/08/25 18:28 ] 告知:M線上のアリア | TB(-) | CM(-)
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