「今夜は寒いね」

彼女が最初に言ったのは、何気ない、実にどうでも良い、気温に対する感想で、
それを僕は彼女の隣で、手を伸ばしても届かない距離としての隣で、ぼんやりと聞いていた。

「寒いね、もう夏は終わったからな」

僕等は小高い丘のような場所に立っていた。丘ではない。
只、少しだけ全てを見渡せるような、かと言って海も、川も、町並みさえ見渡せる訳でもない場所で、
そのような小高い丘のような場所で、離れるように寄り添って、並んで立っていた。

「もう冬だもんね」
「否、まだ秋だよ」

紅葉が見える訳では無い。
だけれど今は暦の上で、まだ冬では無いのだから、僕の返答は至極普通だった。
ところが彼女は表情を変える訳でも無く、不満を訴える訳でも無く、当然の事のように言った。

「冬よ、寒いから」

寒いからと言って冬ならば、北極点は年中、冬になってしまう。
冬では無い。それは冬のような春であり、冬のような夏であり、同じように冬のような秋だ。

「秋だよ、寒くても」
「冬だと思えば、冬じゃない」
「否、そんなに単純な問題じゃないよ」

小高い丘のような場所から見える、目の前に広がるべき風景に、僕は呟いた。
目の前に広がるべき風景は、海だとか、川だとか、町並みであるべきだけれど、実際は何も無かった。
只、一面が真白で、その他に色は無く、風だけは感じる事が出来た。

「重さが違うのよ」
「重さ?」
「そう、秋には秋の重さがあって、冬には冬の重さがある」

何の重さ?と問いかけようとして、そこで僕は躊躇した。
僕の頬をすり抜けた冷たい風が、その一瞬間、確かに痛かったから。

「風の重さ?」
「どうかな、それは人それぞれだから」
「だとしたら重さを感じるのも、感じないのも、人それぞれだ」

僕が言うと、彼女は小さく笑った。小さすぎる笑いだった。

「あの続き、書かないの?」
「続き?」
「君が気に入って書いていた、あの小説の続き」
「ああ……」

此処は一面、真白で、何処を眺めているのか、時々わからなくなる。
何処を眺めるのも正解だ。不正解なんて無いんだから。
風が吹き、もしも痛さを感じるならば、その先を睨み付けてやれば良い。
何も無いように見えるだけで、何も無い訳では無いんだ。

「書けるかな?」
「書けないの?」
「さてね、どうだろう」

僕等は変わってしまった。何が変わったのかは解らない。だけれど変わってしまった。
思考が変わってしまった。感情が変わってしまった。視点が変わってしまった。
未来は現在になり、現在は過去になってしまった。そして過去は、

「思い出になってしまった?」
「ははっ、どうだろう」
「はははっ」

白い。白い。真白だ。
綺麗だ。素直だ。正直だ。そして尚、僕は色に憧れている。

「贅沢なんだよ、人間は」
「人間は?」
「否、言い過ぎた、僕は」

真白に憧れる。
その中に一点、色を見付けたい。
僕が進むべき位置を、守るべき場所を知りたい。

「汚れるの嫌い?」
「嫌いでは無い、だけれど僕は」
「白に憧れている」
「白の中に一点、それだけが欲しい」
「贅沢なのね、君は」

寒いな。
もしかしたら彼女の言うとおり、今は冬なのかもしれない。
僕が感じたならば、それで良いのだろう。第一、僕が決めなければ、誰が決めるんだ。
気象庁や、朝の天気予報や、巷の噂話で、冬を決めて良い訳じゃないだろう。僕は冬が好きなんだ。

「自分で決めるよ」
「何の話?」
「さてね、何の話だろう」

此処には何も無いような気がしている。何も無い訳では無い。
彼女の手にさえ届かないような気がしている。決して届かない訳では無い。
重さを知るんだ。自分の重さを知る事だ。僕がイミテイションならば、世界もイミテイションだろう。
それで逃げ場を探しているなら、何て馬鹿げた一人遊びだろう。ところが痛みを感じた瞬間に、重さを知る。
届かない彼女の、存在を知る。

「寒い?」
「そうね、少し寒い」
「だとしたら、今は冬かもしれないな」
「ううん、まだ秋よ」
「ははっ」

この白は、きっとイミテイションだ。
何処に行くべきか解らない、迷った真似をしていた僕が、望んでいただけの白。
汚れを知らないだけの白。決して誰にも届く事は無い白。飾られた白。嘘の白。

「あの続き、書くよ」
「小説の?」
「うん」
「約束、嫌いなんじゃなかったっけ?」
「うん」

嫌いだった。果せる保障が無いからね。
例えば明日の今頃、僕が何を考えているのかさえも、僕には解らなかったんだ。
だけれど憧れるよ。本物の真白に憧れるように、約束が果される日に、僕は少しだけ憧れている。
さぁ、今から僕等は何処へ進むべきか。望むように進んでみよう。今から僕は冬だ。僕の大好きな冬だ。
イミテイションな白は、もうじき全て消えるだろうから、そうなれば僕等は離れ離れだ。望むように進めば良い。
後生会えないかもしれないから、小さな約束を一輪、植えておきたい。

やがて此処にも本当の冬が来るよ。
僕等が自分で決めようとも、決めなくとも、有無を言わせぬ冬が来るだろう。
小さな約束を一輪、植えさせてくれ。

どんな約束かは言わない。
きっと彼女は、もう知っていると思うから。
只、僕等は真っ直ぐに、汚れても尚、純粋である事を願うんだ。

「今夜は寒いね」

そうだね。

さようなら。
こんにちは。
全ては僕等が決めた季節に従って。

白い、小高い丘のような場所に風が吹き、次の瞬間、僕等はいなくなった。

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