やがて全てが枯れ落ちる白い季節になっても、其の羽音は鳴り止もうとはしなかった。
何処にどのような道が在って、君をそのように変化させたのかな。
其れとも初めから、そうだったのかな。
緩やかに上昇した熱は、やがて同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。
(初雪は誰かと一緒に見たい?)
今にも崩れてしまいそうな、彼女の声が聴こえる。
透き通った氷の板の上に素足で乗るような、彼女の軋んだ音が聴こえる。
其の熱を、決して上昇させてはいけない。(やがて彼女は、凍えた水の底に沈んでしまうだろう。)
動かしていけないのだ。
動かしては。
溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。

第二三話 『自室(微熱)』
彼女と美術館に行った後から三日間、僕は自室のベッドの中で暮らした。
高熱が僕の意識を朦朧とさせたけれど、可笑しな事に、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じているのだ。
初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、二日目にはTシャツを数回着替えた記憶がある。
三日目ともなると薬と休息の効果か、高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。
部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。
「……寝てる?」
僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。
姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。
再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。
姉。
姉が、この家に戻ってきたのは何年前だったろうか。
一昨年だった気もするし、もう少し前だった気もする。
とにかく姉は一度、この家を出て、そして戻ってきた。
姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、むしろ歓迎すらした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の只中に在った僕にとって、自由を感じながらも、何かを喪失した気分にも近かった。
姉が戻ってくるという事は、もしかしたら幼い自分の中に在った失われた何かを、
再び取り戻す作業なのでは無いかと、幼いながらに小さく期待していたのだ。
ところが戻ってきた姉は、僕が期待していたままの姉では無かった。
其れは始め、小さな違和感だった。
再会した姉は随分と痩せており、小奇麗な服に身を包んでもいた。
近付くと知らない、記憶に無い、甘い匂いが漂い、其れが姉の好んだ香水の匂いだと知った。
実際、当時の僕は大学受験を控えており、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕が感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
やがて時間が経てば、姉の変化を成長と、受け入れる事も可能だったのだ。
ところが僕の進学に伴い、僕と姉は中途半端な時期に、再び離れた。
そのまま数年が過ぎても、気付かずに終わらせる事が出来た。
ところが僕は大学を休学する事になり、此処に帰ってきた。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
否、其の正体は、姉の変化では無かったのだ。
小鳥のサエズリが聴こえる。 枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは黄色のセキセイ・インコだったか。其れとも何色のセキセイ・インコだったか。
姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。
嗚呼、小さな違和感の正体。
其れは、停止。
姉に感じた違和感は変化では無く、
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。
僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたままの僕の足は、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、
音も無いままに脳裏に焼き付けられた。
同じように姉の脳裏にも、
僕が殺した小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。
姉が、其れを日頃、意識しているのかは知らない。
しかし言動の端々に、行動の端々に、姉が失った小鳥の記憶が、
僕が殺した小鳥の記憶が、今も確かに息衝いている事は、まるで疑いようが無かった。
姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。
大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。
だから僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉弟の関係であれば、目を見て話さない事くらい、
もしかしたら、別に自然な事なのかもしれない。
ところが僕と姉の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
それで僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じていた。
額のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させていた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
感謝。
付随する罪悪感。
無言。
美術館の帰り道。
リンカ。
彼女は何と言ったっけ。
(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)
嗚呼、今すぐ僕の温度を下げてくれ。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。
あの瞬間、きっと僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、きっと僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。
罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。
僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。
「一緒が良いよ、僕は」
窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。
「……寝てる?」
姉の声が聞こえて、僕は目を瞑った。
だけれど、すぐに目を開き、絞るような声で、短く答えた。
「起きてるよ」
僕の声に反応するように扉が開き、姉の細い腕が見えた。
其れから少し戸惑うように、部屋を覗き込む。
「……何?」
「玄関に、お友達、来てるけど……」
「……誰?」
わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。
「女の子だけど……」
姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。
何処にどのような道が在って、君をそのように変化させたのかな。
其れとも初めから、そうだったのかな。
緩やかに上昇した熱は、やがて同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。
(初雪は誰かと一緒に見たい?)
今にも崩れてしまいそうな、彼女の声が聴こえる。
透き通った氷の板の上に素足で乗るような、彼女の軋んだ音が聴こえる。
其の熱を、決して上昇させてはいけない。(やがて彼女は、凍えた水の底に沈んでしまうだろう。)
動かしていけないのだ。
動かしては。
溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。

第二三話 『自室(微熱)』
彼女と美術館に行った後から三日間、僕は自室のベッドの中で暮らした。
高熱が僕の意識を朦朧とさせたけれど、可笑しな事に、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じているのだ。
初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、二日目にはTシャツを数回着替えた記憶がある。
三日目ともなると薬と休息の効果か、高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。
部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。
「……寝てる?」
僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。
姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。
再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。
姉。
姉が、この家に戻ってきたのは何年前だったろうか。
一昨年だった気もするし、もう少し前だった気もする。
とにかく姉は一度、この家を出て、そして戻ってきた。
姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、むしろ歓迎すらした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の只中に在った僕にとって、自由を感じながらも、何かを喪失した気分にも近かった。
姉が戻ってくるという事は、もしかしたら幼い自分の中に在った失われた何かを、
再び取り戻す作業なのでは無いかと、幼いながらに小さく期待していたのだ。
ところが戻ってきた姉は、僕が期待していたままの姉では無かった。
其れは始め、小さな違和感だった。
再会した姉は随分と痩せており、小奇麗な服に身を包んでもいた。
近付くと知らない、記憶に無い、甘い匂いが漂い、其れが姉の好んだ香水の匂いだと知った。
実際、当時の僕は大学受験を控えており、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕が感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
やがて時間が経てば、姉の変化を成長と、受け入れる事も可能だったのだ。
ところが僕の進学に伴い、僕と姉は中途半端な時期に、再び離れた。
そのまま数年が過ぎても、気付かずに終わらせる事が出来た。
ところが僕は大学を休学する事になり、此処に帰ってきた。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
否、其の正体は、姉の変化では無かったのだ。
小鳥のサエズリが聴こえる。 枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは黄色のセキセイ・インコだったか。其れとも何色のセキセイ・インコだったか。
姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。
嗚呼、小さな違和感の正体。
其れは、停止。
姉に感じた違和感は変化では無く、
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。
僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたままの僕の足は、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、
音も無いままに脳裏に焼き付けられた。
同じように姉の脳裏にも、
僕が殺した小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。
姉が、其れを日頃、意識しているのかは知らない。
しかし言動の端々に、行動の端々に、姉が失った小鳥の記憶が、
僕が殺した小鳥の記憶が、今も確かに息衝いている事は、まるで疑いようが無かった。
姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。
大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。
だから僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉弟の関係であれば、目を見て話さない事くらい、
もしかしたら、別に自然な事なのかもしれない。
ところが僕と姉の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
それで僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じていた。
額のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させていた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。
チチチ。
チチチ。
チチチ。
感謝。
付随する罪悪感。
無言。
美術館の帰り道。
リンカ。
彼女は何と言ったっけ。
(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)
嗚呼、今すぐ僕の温度を下げてくれ。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。
あの瞬間、きっと僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、きっと僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。
罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。
僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。
「一緒が良いよ、僕は」
窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。
「……寝てる?」
姉の声が聞こえて、僕は目を瞑った。
だけれど、すぐに目を開き、絞るような声で、短く答えた。
「起きてるよ」
僕の声に反応するように扉が開き、姉の細い腕が見えた。
其れから少し戸惑うように、部屋を覗き込む。
「……何?」
「玄関に、お友達、来てるけど……」
「……誰?」
わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。
「女の子だけど……」
姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。




