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彼女はモスキート。 第二三話

全てが枯れ落ちる白い季節になっても、羽音は鳴り止もうとしなかった。
何処にどのような道が在って、今を変化させたのか。
其れとも初めから、そうだったのか。

緩やかに上昇した熱は、同じ曲線を描きながら、下降するだろう。
混乱した感覚を持て余して居たのは僕一人か。
其れとも君も同じか。

(初雪は誰かと一緒に見たい?)

彼女の声。
今にも崩れてしまいそうな。
透き通った氷の板の上に、素足で乗るような。

軋んだ音。
熱を上昇させてはいけない。
彼女は凍えた水の底に沈んでしまうだろう。

動かしていけないのだ。
動かしては。

溶かしてはいけないのだ。
溶かしては。




1678058_212.jpg

第二三話 『自室(微熱)』




彼女と美術館に行った日から三日間。

僕は自室のベッドの中で暮らした。
僕の意識は朦朧として居たけれど、薬を飲むのだけは忘れなかった。
あらゆる事象を猜疑しようと努めてみたとしても、薬を飲めば治ると、僕は信じて居たのだ。

初日は薬を飲んだ記憶しか残っておらず、
二日目にはTシャツを数回、着替えた記憶がある。
三日目ともなると高熱は音も無く下がり、随分と楽になった。

「寝てる?」

部屋の扉を外側からニ、三度、小さく叩く音が聞こえた。

僕の返事を待たずに、扉が開く。
聞き慣れた静かな声は、姉の其れだった。
ベッドの中で息を潜めるようにして、僕は目を瞑った。

姉が僕の額に、掌を当てる。
其れから氷水の揺れる音が聴こえる。
真新しい冷たいタオルが、僕の額に置かれた。

再び、扉が閉じる音。
其れを追うように、すぐに無音が訪れた。
僕は目を開き、大きく息を吸い込むと、小さく吐き出した。

姉。
姉が戻ってきたのは何年前だろうか。
とにかく姉は一度、この家を出て、数年前に戻ってきた。

姉が戻ってくる事自体、僕は反対では無かったし、歓迎さえした。
其れまでの数年間、僕は「姉が何処にも存在しない我が家」というモノを経験しており、
其れは思春期の最中に在った僕にとって、自由を感じながら、何かを喪失した気分にも近かった。
喪失した何かを、僕は取り戻したかった。

ところが戻ってきた姉は、僕が期待していた姉では無かった。

最初は小さな違和感だった。
再会した姉は、記憶の中の姉よりも痩せており、奇麗な服に身を包んで居た。
近付くと知らない匂いが漂い、其れが姉と僕の間に生まれた距離を、一定の間隔で保ち続けた。

甘い匂い。
記憶に無い匂い。
姉の好んだ香水の匂い。

当時、僕は大学受験を控え、姉と会話を交わす時間も足りなかったから、
僕の感じた小さな違和感は、小さな違和感のままで終わらせておく事も可能だった。
時間が経てば、僕の感じた小さな違和感を、姉の変化を成長と受け入れる事も可能だったのだ。

ところが東京の大学に合格し、
僕と姉は中途半端な時期に、再び離れる事になった。
そのまま数年が過ぎてしまえば、やはり気付かずに終わらせておく事が出来たのかもしれない。

しかし僕は戻って来てしまった。

大学を休学し、また姉と一緒に暮らすようになった。
其処で初めて、気付いてしまった。
小さな違和感の正体。
姉の変化。

チチチ。

チチチ。

チチチ。

否、其の正体は、姉の変化では無かった。

小鳥のサエズリが聴こえる。
枯葉が、小さな音を、鳴らすような声だ。
其れは何色のセキセイ・インコだったか。

姉がセキセイ・インコの雛を連れて来たのは、僕が六歳の秋だった。
鳥カゴと、餌を入れたビニール袋を手に持って、
彼女は玄関に立って居た。

小さな違和感の正体。



其れは、停止。



姉に感じた違和感は、変化では無い。
変化の中に息衝いたまま、停止してしまった感情。
子供のまま、大人に成り切れず、やがて腐り果てるであろう感情。

僕は小鳥を踏んだ。
真新しい靴を履いたまま、黄色の小鳥を踏んだ。
其れは酷く悪趣味なスロー・モーションのように、音も無いままに脳裏に焼き付けられた。

僕が踏んだ小鳥の記憶が、停止した感情と共に、息衝いている。
僕が感じた違和感の正体は、恐らく其れだった。
変化の中に、停止した一点。

虚無。
永遠など存在しないという事実。
幼い少女だった姉の記憶に、深く染み込んでしまった経験。

姉は優しい。
静かで、美しく、穏やかな人だ。
其れから潔癖すぎる程に、真面目な人だった。
だからこそ姉は、彼女自身の或る重要な一部分において、変化する事を止めた。
姉は停止する事を選び、期待する事を絶ち、現在と未来に希望する事を止めた。

大学を休校し、此処に戻って来て、初めて僕は其れに気付いた。

僕は、姉の目を見て話す事が出来ない。
普通の年頃の姉と弟の関係であれば目を見て話さない事くらい、
もしかしたら自然な事なのかもしれない。

ところが姉と僕の関係は、明らかに不自然だった。
まるで被害者と加害者の関係のように、明らかに不自然だった。
だから僕は、姉が部屋に入って来て、額のタオルを交換している間中、目を閉じて居た。

額の上のタオルは緩やかに、其の熱を上昇させた。
音も無くズリ落ちて、僕の目を塞いだ。
面倒なので放っておいた。

チチチ。

チチチ。

チチチ。

感謝。
付随する罪悪感。
無言。

リンカ。
美術館の帰り道。
彼女は何と言ったっけ。

(来年も、初雪は誰かと一緒に見たい?)

今すぐ僕の温度を下げて欲しい。
そうすれば色々な事に、少しは素直になれるかもしれないのに。
あの日、僕とリンカは手を繋ぎ、随分と長い時間、降り止まない初雪を眺めていた。

あの瞬間、恐らく僕は素直だった。
上昇する熱と同じ曲線で下降する熱の、其の均衡点で、恐らく僕は素直だった。
ところが今では、緩やかな微熱から抜け出す事さえ出来ずに、ぬるいタオルに目を塞がれている。

罪。
罪を背負う覚悟。
無覚悟の罪を背負うだけの覚悟。

僕と、誰か。
僕と、僕では無い誰か。
僕と、僕では無い誰かが関わった事による罪。

「一緒が良いよ、僕は」

窓の外に、薄く雪が降っている。
其れは季節はずれの止まない羽音にも似ている。
再び、廊下から足音が聞こえて、続いてニ、三度、小さく扉を叩く音。

「寝てる?」

姉の声が聞こえた。
僕は目を瞑り、息を潜めた。
喉を絞るように、小さな声で答えた。

「起きてる」

扉が開く。
姉の細い腕が見えた。
少し戸惑うように、部屋を覗き込む。

「何?」

「玄関に、お友達、来てるけど」

「誰?」

わざわざ見舞いに来るような友人など、誰も居ない。
そもそも僕が風邪で寝込んでいるなど、誰も知らないだろう。
露骨に怪訝な表情を浮かべたと自覚しながら、僕は身体を起こした。
額に乗せていたタオルが反動で落ちて、床を濡らしたけれど、放っておいた。

「女の子」

姉が付随させた単語に、僕の心臓が反応した。
止まない微熱の中で立ち上がると、僕は玄関へと向かった。
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