
鼓動が、水を跳ねる音が聞こえる。
鼓動を伴った水が水を跳ねて、また別の水を跳ねる。
跳ねた水が重なって、また別の水溜りを作る。其の水も、跳ねる。
人影が近付いて、僕等は息を殺した。
身を低く丸めて、暗闇に飲まれようと努めた。
「何?何?」
ミチルが不安げな声を漏らしたので、其の口を塞いだ。
「近所の兄ちゃんだ、多分……」
小声で伝える。
恐らく男の方は、近所に住んでいる高校生。女の方は解らない。
「もう喋るなよ、ミチル……」
ミチルの口を塞いだまま、僕は穴を覗いた。
男女は手を繋いで走り、もうすぐ近くまで来ていた。
雨を避ける為に、此処に入る気だろうか。
この青いトンネル状の土管は小さいが、横には長く10m以上ある。
僕とミチルは中央より左寄りの位置に身を隠している。
もしも男女が右側の入口から中に入れば、息を殺して身を潜めていれば、
暗闇に隠れて見付からないはずだった。足音は次第に大きく、近くなった。
声が聞こえる。
「ああ、何だよ、この雨!ほら、早く入れよ!」
「ちょっと!何なの、この穴?こんなトコで休む気?」
「うるせぇ、いいから早く入れよ、濡れるよりマシだろうが!」
とっくに濡れているのに、男は乱暴気味に言った。
強引に促されるようにトンネルに入ると、女は小声で文句を言った。
僕等とは逆方向の、右側の入口。
穴から漏れた光で、影が動いているのが解る。
(……何?)
耳元からミチルの小声。喋るな。見付かるだろ。
影が動き、ミチルは其れを見ている。不安なのか、僕に体を寄せた。
動くなよ。黙っていれば、向こうからは僕等が何なのか解らない。影を動かさなければ。 多少の声ならば雨音が隠してくれる。だけれど影は動かしてはいけない。 気付かれてはいけない。ミチル、これは単なる隠れんぼだ。
(……大人から、隠れるんだよ)
(……何?)
(……得意だろ、隠れんのなら)
ミチルは隠れんぼが苦手だった。其のくせ見付かりにくい場所に隠れる癖があった。 何時も一番最後に見付かるのがミチルで、其のままずっと見付からない時もあった。 ミチル、隠れんぼっていう遊びは、見付けられる部分に面白さがあるんだよ。 見付けられないままの隠れんぼなら、最初から居なくたって同じ事なんだ。 だけどね、ミチル。今は見付からない為の隠れんぼをするんだ。 大人に見付からない、隠れんぼだよ。
(……得意だろ?)
(……うん)
男女の影は初めの内、小さな言い争いをしていた。
女の声が甲高くて、其の声が雨音を裂くように聞こえてきた。
「ちょっと汚い!何なの此処!ガキの遊び場じゃん!」
続けて男の低い声。声変わりを終えた、低い声。
内容は聞こえない。再び女。
「だから!最初から家に行ったら良かったんじゃん!」
雨音。乱暴な雨音。瞬間、風。小さな穴から、風。
「親がいるとか知らないから!……ちょっと!」
暗闇の中で、僕とミチルは動かなかった。
体育座りの姿勢のまま、息を止めるように動かなかった。
少しでも動いて、大人に気付かれてしまうのが怖かった。
自分の存在を知られる事を、極端に恐れていた。高校生が怖かった。
もし見付かったら殴られるだろうか。何も悪い事をしてないのに?
殴られるかもしれない。何時だって大人の考える事は解らない。
高校生くらいの大人が考える事が、特に、僕等には解らない。
だって彼等は、親や先生よりも、ずっと僕等に近いはずなのに、何時だって誰よりも大人ぶっている。僕等を遠ざけようとする。 僕等を邪魔な者(其れは例えば、大嫌いな自分自身)を見るような目で見る。 だから隠れなければいけない。大人に見付かってはいけない。
(……あれ何?)
僕の思考を遮るように、耳元でミチルが呟いた。
首を動かさないように、視線だけを動かす。
女の甲高い声は、もう聞こえてこなかった。
代わりにフタツの影が、静かに動いていた。
(キス、してる……)
(え?)
瞬間、割れたビール瓶と、下品な雑誌の存在を思い出した。
僕の足下に転がっている、近所の兄ちゃんが置き忘れた、下品な雑誌。
ビール瓶の破片。
破片。
(何?)
(いいから見るな!)
鼓動。
僕の心臓が、血液を圧し出す音が聞こえた。
急に黙っているのが辛くなって、何処かに逃げ出したい気分になった。
雨音が、其れを拒絶している。
僕に逃げる場所は無くて、只、其の影から目が離せなくなった。
影が動く。
衣服が擦れる音
が
聞こえるような気がする。
地面。
濡れている。
小さな雨は濡らしていく。
水は一方向へ。
やがて定められた場所へ。
馴れ親しんだ場所から、知らない場所へ。
「あ、駄目……」
瞬間、光。
小さな穴から、一瞬の光。
足元の下品な雑誌の、カラー・ページ。
其れと同じ色をした、女の肌。
被さるような、男の息。
再度、闇。
「きゃ!」
突然、ミチルの声。
振り返る。見えない。手を握る。
影が動く。
「誰だ!?」
男の声に反応するように、僕は叫んだ。
「逃げろ!」
ミチルを強引に圧し出す。
低い姿勢のまま、ビール瓶を踏み潰す。
突風。轟音。雑音的な無音。静寂とは正反対の無音。
僕とミチルは手を繋いだまま走った。
決して後を振り返らずに走った。
雑音だらけの中を走った。
僕等は逃げた。
逃げる為だけに逃げた。
大人に捕まらない為だけに逃げた。
途中、走りながらミチルが大声で何かを問いかけた。
まるで聞こえなかった。
気が付くと、見知らぬ団地の自転車置き場にいた。
鉄製の屋根に雨が降り落ちて、不細工な音楽を奏でていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息は白く、頭の中も白く、また言葉だけが。
「はぁ、はぁ、はぁ」
僕等を飽きもせずに、動かそうとしている。
「はぁ、はぁ、はぁ、もう大丈夫?」
もう大丈夫。追って来ない。
そもそも追ってなんか来るもんか。裸のままで。
自転車置き場の屋根が奏でる不細工なドレミに合わせて、僕は言った。
「ここまで来れば、もう大丈夫」
結局、僕等は濡れてしまった。ズブ濡れだった。
ミチルが巻いたハンカチから血が流れて、靴下まで届きそうだった。
「おい、足、大丈夫かよ!」
「……あ、忘れてた」
「痛くないか?」
「全然」
目の前には、見知らぬ団地。
普段は近付く事の無い、見慣れぬ棟。
僕が住んでいる棟とは、まるで反対方向だった。
「変な棟に来たな」
「N22棟」
「まさか、お前ん家?」
「ううん、新聞配達で、来るから」
手伝いで、と付け加えると、ミチルは呼吸を整えた。
其れがお婆ちゃんの手伝いだという事には、僕でも気が付いた。
其れからミチルが来年の春、別の中学校に進む事を、また思い出した。
「……何だったの、あれ」
高校生の男女の影。息。肌色。
ミチルの疑問に、僕は何も答えなかった。
あれが何だったのか、僕もミチルも、本当は知っていた。
大人になる事。
僕等の知らない、何者かになる事。
馴れ親しんだ場所から、知らない場所へと、流れる事。
右手に過去。左手に未来。
僕等の体を経由して、或る方向へと流れていく、時間。
何時までも隠れていてはいけない。やがて姿を現して、笑うんだ。
だから僕等は、いずれ。
「見付からなくちゃな」
雨音は次第に弱くなっていたけれど、まだ止みそうには無かった。
其れは通り雨。そして雨。何時か晴れるまでの青い雨。
終わらない事は無いはずの雨。だとしたら、
「帰ろうか」
僕は自転車置き場を離れて、振り返った。
今更、これ以上、雨に濡れても、別に支障は無かった。
赤く染まったハンカチを膝に巻いて、佇んでいるミチルが見えた。
「……どうなるの?」
「え?」
「じゃ、この隠れんぼ、どうなるの?」
ミチルが、雨音の中を、泳ぐような声で言った。
さてね、無効だろ、だなんて言う気にはなれなかった。
僕とミチルは何故だか、この時、まるで共犯者のようだった。
何らかを共有した理解者のような気分だった。
「……見付けるよ」
「え?」
「じゃ、僕が見付けてやるよ、今から鬼になってさ」
ミチルは眉間にシワを寄せて、不思議そうな表情を浮かべた。
まったく初めて見る、ミチルの表情だった。
だから僕は笑った。
「別の中学、行くんだろ?」
「うん」
「だったら僕が、見付けてやるよ」
「うん」
「僕が、何時か必ず、お前を見付けてやるよ」
「……どうやって?」
今は無理だ。僕等は子供だから。
隣町に行く事さえも、自転車を漕ぐのは大変なんだから。
だけれど僕等は思い出すだろう。何時かは今日を、懐かしく思い出す。
この雨を。止まない雨を。男女の影を。下品な雑誌を。
割れたビールの破片を。 身を潜めた息遣いを。
赤く染まったハンカチを。青いトンネルを。
僕等の約束を。
「大人になって」
僕とミチルが交わした其れは、約束とも呼べぬ約束で。
相手がミチルじゃ無いのなら、果たす必要も無い約束で。
只、僕の右手と左手に同じ重さの其れが在るなら、片方はミチルのモンだ。
ミチルが受け取るべきモンだ。
だから僕は日曜日の終わりから月曜日の始まりまで、
火曜日を経て水曜日を泳ぎ、 木曜日に呆れ、金曜日に忘れ、
土曜日に思い出し、ようやく此処に来たという訳だ。
右手に過去。左手に未来。
ミチルは今も隠れたままだ。あの汚れたハンカチを膝に巻いて。
僕が見付け出さなければ、ミチルは外に出る事も出来ない。
笑う事も出来ない。
人通りの多いハンバーガー・ショップの前。真ん前。
見慣れた光景は、見慣れてしまった光景だ。
何故なら此処には十年前、小さな公園が在ったんだから。
其れが今じゃハンバーガー・ショップで。
あろうことか、僕は其れを見慣れてしまっている。
白い自動車が、ドライブ・スルーを、ドライブ・スルーする。
幼い僕等がブランコを経て、砂場へ駆けた瞬間のように。
青いトンネルの中から、あの小さな穴を覗いたように。
世界中の全てを、知り尽くした気分だったように。
そして彼女を捜している。
今すぐ見付けて欲しいと願いながら、見付かる事を恐れている。 自分の存在を知られる事を、極端に恐れている。そしてまた、奥深くに隠れている。 其のような彼女を、また見付けようとしている。
季節はずれの羽音が聞こえて、僕は振り返る。
其れは雨音にも似た音で。
其れは雨音にも似た音で。
其れは通り雨。そして雨。
其れは通り雨。そして雨。
何時か晴れるまでの、青い雨。