死にたくなるほど悲しいことなんて、世の中にそう無いと思う。
其れでも死んでしまった人達がいて、其れは何故かって、たまに考えたりする。
其れは本当にたまにで、毎日なんかじゃない。
大抵の出来事は忘れてしまうことの方が多くて、何の手がかりにもならない。
真っ直ぐ生きることに憧れて、其の通りに生きてきたけれど、
振り返れば何と出鱈目で、適当な人生なんだろう。
君の歩き方さえ、もう僕は忘れてしまった。
物事に絶対なんて求めてはいけないのは、
絶対なんて絶対に存在しないなんて、馬鹿げた問答をしたいからじゃなくて、
只、何事も決め付けてはいけないんだ、そして、何事も本当に否定することは出来ない。
どれほど馬鹿げた問答も、絶対に否定してはいけない。
(そして全く同じ瞬間、其れは否定に値するのだろう。)
「頭がおかしくなるようなセックス、したことある?」
「ん?」
「頭がおかしくなるような、狂っちゃうようなセックス、したことある?」
「ああ、ありゃ麻薬だよ」
「離れられなくなるってこと?」
「いや、あんなもの知らなくたって良いってこと」
「ふぅん」
君の家の三軒隣で飼っていた猫の名前は、よく覚えている。
其れから、其の庭に咲いていた花の色も。
あれは小さな庭だが、素朴で清楚な品格があった。
深夜にこっそり忍び込んで、君を犯したくなるような庭だった。
ところが実際にそうしなかったのは、やはり僕は嘘が嫌いだったからだよ。
其れで真っ直ぐに(自分なりに真っ直ぐに)僕は、僕の部屋に帰った。
僕の部屋の天井の低さも、よく覚えている。
あれは僕に多くの虚しさを与えたが、其のどれもが手の届かない場所に存在した。
どれほど低い天井も、寝転べば指先に触れることもない。
僕は天井の上の星空を夢想して、大言壮語を吐きまくったという訳だ。
未熟な人生観と、罪人を裁くかのような理想論と、壮大な夢語りという訳だよ。
ところが其れは、嘘とどう違う?
「じゃあ、今は?」
「ん?」
「今は頭がおかしくなるほど、気持ちよくないってこと?」
「いや、そういう訳ではないよ」
「じゃあ、」
どういう訳だ。嘘の行方はどうなった。
僕は何度か自分に問いかけたけれど、答は返ってこなかった。
其れでこう考えた。
あれは嘘では無く、かといって本当でも無かった。
真っ直ぐに進むことが、真っ直ぐに進んでいることになるとは限らないように。
嘘を吐かないことが、嘘を吐いていないということには、決してならないように。
近所の飲食店で大量の残飯が巨大なゴミ袋に放り込まれた翌日、
近所の団地で身寄りの無い老人が餓死している姿が発見された。
サイレンの鳴らない救急車が、赤色を点したまま、停止している。
破れたゴミ袋の束を、数羽のカラスが、嘴で突いている。
上の階では大学生が、講義を休んで静かなセックスに勤しんでいる。
誰が悪い訳でもない。悪人なんて存在しない。(そして全く同じ瞬間、其れは――)
死にたくなるほど悲しいことなんて、世の中にそう無いと思う。
それでも死んでしまった人達がいて、其れは何故かって、稀に考えたりする。
それは本当に稀にで、毎日なんかじゃない。
コンドームに棄てられた白濁に、もしも命が在るのだとして。
停止したままの白い救急車の横を、黄色い収集車が通り抜け、止まった。
其れは数羽のカラスを蹴散らし、何個かの破れた束を静かに飲み込み、再び走り出した。
頭がおかしくなるような、狂っちゃうような、
互いの何かをぶちまけるような、冷静なバランスを失った何か。
どちらか一方に偏った、絶対的な何かに、僕はもう身を委ねる必要は無い。
衝動とは適度な距離を保ちながら、只、耽々と狙っているんだ。
あの小さな庭は、素朴で清楚な品格があった。
あの小さな庭は、誰にも知られぬまま、荒らされぬまま。
其のままが良い。
最期には、其の小さな庭に、年老いた君を連れて、
誰にも知られぬまま、荒らされぬままの、其のままの場所で、
たまに君の手に触れ、たまに君の名を呼び、静かに暮らしていたいんだよ。
其れが僕にとって、
「頭がおかしくなるほどの、」
「ん?」
死にたくなるほど悲しいことなんて、世の中にそうは無い。
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