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別にどうって事ないのだ、世界は。
すべり台とブランコと、あとは小さな砂場しかない公園を抜けて、
錆びた柵に囲まれた変電所を過ぎると、僕らの小学校がある。
プール授業が嫌いだけれど、それとも今日でオサラバだ。

「よぉ、少年、明日から夏休みかぁ?」

小学校の近くに昔からある、小さな自転車屋。
六角レンチを持ちながら、油で汚れたツナギを着た、ヒゲさとしが声をかけた。
ヒゲさとしというのは、僕らが付けたあだ名だ。
正確に言うと、転校して行った、石田くんが去年の二学期に付けたあだ名だ。
ヒゲさとしは僕らの小学校の卒業生らしく、先生達はヒゲさとしに会うと「サトシ」と呼ぶ。
ヒゲさとしの本当の名前は、サトシなんだろう。

「夏休みは明々後日から」

「何でぇ、嬉しそうな顔してるから終業式かと思っちまったい」

「今日でプール授業が最後なんだ」

「へぇ、少年、プール授業が嫌いなのかい」

「嫌いだね、算数と理科と給食の時間より、ずっと嫌いだ」

そこまで言うと、今日の給食の献立を思い出して、僕は憂鬱になった。
今日の献立は「黒コッペ」と「春雨サラダ」と「大学イモ」に「玉子スープ」だったはず。
この玉子スープが厄介で、玉子スープなら大人しく玉子だけを入れておけば良いものを、
何故か、僕らの小学校の玉子スープには、シイタケが入っている。

「何でぇ、給食は嬉しいだろうがよ、俺の子供の頃なんか……」

「シイタケは大問題だよ」

ヒゲさとしは遠い目で何か言おうとしていたけれど、
僕のシイタケ発言を聞くと、六角レンチで自分の肩を軽く叩きながら言った。

「馬鹿たれ、シイタケは体にいいんだよ」

「へぇ、シイタケに入ってる栄養素って何なの?」

「へ? そりゃあ、お前、アレだよ、あ~、ビタミンCとかだよ」

ヒゲさとしは自転車に向き直ると、自分から話しかけたくせに、
「いいから学校行け」と言って、六角レンチを持った手で、僕を追い払った。
ヒゲさとしはヒゲのせいで歳を取ってるように見えるけれど、多分まだ若いんだと思う。
これからもシイタケなどを食べて、健康の維持に努めて欲しい。

プルルルルル。
ポケットの中でPHSが鳴った。
僕はポケットに手を入れてPHSを取り出す。
母さんからだ。

「もしもし? あんた家に水泳キャップ忘れたままだけど、どうすんの?」

僕は片手に持っていた紺色の水泳バックを見る。
中を開けると、バスタオル、着替えのパンツ、ロートこどもよう目薬、が入っている。
ちなみに海水バンツは当然、既にジャージの下に身に付けている。
そして水泳キャップだけが、確かに入って無い。

「ああ、忘れた」と、僕は見たままの事を言った。
母さんは少し苛々した口調で「それで、どうすんの?」と言っている。

「取りに戻るよ」

「あんた、もう遅刻でしょ」

「大丈夫、今から走って戻るから」

PHSの通話を切ると、僕は今来た道を、今度は逆に走った。
ランドセルの中で教科書が、ゆさゆさと揺れた。
変電所が見えて、公園を通り過ぎる。

プールなんか大嫌いなんだけど、
大嫌いな事の為に、わざわざ来た道を戻るのは、何故だろう?
公園のブランコが小さく「キィ」と音を立てて揺れた時、何だか急に馬鹿らしくなった。

僕は足を止めて、やはり今戻って来た道を、逆に歩き始めた。
水泳キャップなんて別に要らないんじゃないか。
プールに入りたくないんだから。

このまま歩いたら遅刻だろうな。
確か今日の体育の授業は一時間目だから、プールに入らなくて済むかも。
そもそも学校に行かなければ、給食の玉子スープを飲む必要だってないんじゃないか。

「よぉ、少年、今日はよく会うなぁ」

自転車のタイヤを回転させながら、ヒゲさとしが声をかけた。
ヒゲさとしは汚いツナギの胸ポケットから器用にタバコを一本だけ取り出すと、
それに火を点けながら「少年、これ今日は遅刻だなぁ……」と笑った。

「どうって事ないよ、別に」

「おお、強気だな少年、それともプール授業が嫌なのかね」

「別に」

別にどうって事ないのだ、世界は。
嫌な事を我慢してまで、無理に学ばなければならない理由が解らない。
どうせ大人になったら使わないような事ばかりなんだろう。
算数だって、理科だって、玉子スープが食べられなくたって、死ぬ訳じゃない。

「泳げなくたって死ぬ訳じゃないからね」

「ほぅ、よく知ってんな、少年、そりゃもっともだ」

ヒゲさとしは笑いながらタバコの煙を吐き出した。
煙は蒸し暑い夏の空気の中に溶け切らず、地面に垂れるように流れた。

「泳げなくたって自転車があれば、何処へでもスイスイ行けるさ」

「へぇ、いい事言うな、少年、一台どうだ」

「自転車なら持ってる」

僕は自転車が好きだ。
ヒゲさとしの店で買った、五段変則の黒い自転車だ。
それさえあれば、一人でだって、何処へだって行けるんだから。

「でもなぁ、それはどうかねぇ……」

不意に、ヒゲさとしが言った。

「自転車なんてなぁ、少年が思うほど万能なモンじゃないぜ。
 そりゃ俺は自転車を愛しているがね。
 でも、そいつを愛してるのと、そいつが完璧ってのは、少し話が違うんだなぁ」

ヒゲさとしにしては長い台詞を、ヒゲさとしは言った。
ヒゲさとしはタバコの煙を眺めながら、何故か少し笑って「いやホント」と付け加えた。

「少年、お前がさぁ、海を渡りたくなった時は、どうすんだい?
 お前さんの自転車は、お前さんを海の向こうに連れていってくれると思うかい?」

「自転車で海を泳ぐのは無理だ」

「よく知ってるじゃねぇか、ははっ。
 そうさ、自転車は海を泳がない、じゃあ、少年、お前さんはどうする?
 海を渡るのを諦めちまうかい? それとも、もっと別の、潜水艦でも手に入れるのかい?」

「別に、船に乗ればいいんじゃない」

ヒゲさとしは、やっぱり笑って「そりゃ、いい考えだ」と言った。
僕はヒゲさとしの吐き出すタバコの煙を眺めたけれど、風に流れてよく見えなかった。
ヒゲさとしは「船ね……」と言ったきり、何も言わなかった。

別にどうって事ないのだ、世界は。

僕らは自由なはずだ。
僕らが学ばされる事なんて、大人になれば役に立たない事ばかりだ。
だって大人達は、自分から、何時だってそう言ってる。
そのくせ僕らには「勉強は大切だ」なんて事を偉そうに言ってくるんだ。
自分達はシイタケを平気な顔で残してるくせに。

「なぁ、少年」

ヒゲさとしは僕も見る訳でも、空を見る訳でもなく、
只、何となく何処か上の方を眺めながら、独り言のように言った。

「俺は自転車を愛してるよ。
 だから、もしも、俺が海を渡りたくなった時には、
 自転車で海を渡ろうなんてしないし、代わりに船に乗ろうともせんよ。
 きっと俺は自分の力で泳ぐよ」

遠くから、風に乗って、小学校のチャイムの音が聴こえた。
小学校の外で聴くチャイムは、妙に間延びした、変な音色だった。
タバコを足で踏むと「あ~あ、少年、遅刻だな」と言って、ヒゲさとしは笑った。

「麦茶でも飲んでっか?」

その日、僕はプールの授業を休んだ。
三時間目が始まるまで、僕はヒゲさとしの店で、自転車の修理を見てた。
呑気な顔で教室に入ったら、先生に怒られた。
怒られた上に給食の時間、玉子スープに大量のシイタケが入っていた。
家に帰ってからは、先生以上に、母さんに激怒された事は言うまでもないだろう。

ヒゲさとしが話に巻き込まれると悪いので、
僕はプールの授業中、ずっとトイレに隠れていた事にした。
どうしてトイレに隠れていたのかと問われたので、胸を張って言ってやった。

「僕はプールが嫌いなんだ」

それで僕は夏休みの間、臨時のプール学習に参加しなければならなくなった。
異議を申し立てる気が起こらなかったのは、面倒くさかった事もあるし、
あの時の、ヒゲさとしの台詞の意味が、よく解らなかったせいでもある。

夏休みに入り、毎日、水泳バックを持って小学校に通ったけれど、
自転車屋の前に、ヒゲさとしの姿はなかった。

ヒゲさとしが長年連れ添った奥さんと別れたらしいと知ったのは、
そのずっと後、大人達の噂話からだったろうか。

それで僕は今日も、クロールで水を掻いている。
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[ 2007/07/25 16:03 ] 小説 | TB(0) | CM(2)
えっとなんだ、いろいろ複雑な気分なんですが!w

プール好きだったなぁ。
底に映る水面の模様。
水中から見上げる空と太陽。

長距離を泳ぎながら
悩み事や考え事してたら
200メートル以上息継ぎを忘れてて
監視員にものスゴイ勢いで怒られたなぁ。

さて、娘達のプールデビューを考えねばなりますまい。
[ 2007/07/26 12:35 ] [ 編集 ]
今の私はこの少年みたいなとこあるけれど
子供の頃の私は水泳帽を取りに家に走ったわよ。
[ 2007/07/25 21:58 ] [ 編集 ]
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